鎌倉幕府二代目将軍・源頼家はその短い生涯の中で、父頼朝以上に女性たちとかかわりを持ったことでも知られています。
そんな頼家と女性を巡って因果関係があったのが、頼朝の腹心・安達盛長の嫡男である安達景盛でした。
比企尼の孫でもあり、後に娘を北条泰時の子に嫁がせるなど有力御家人の一人であった安達景盛の妻(正室、側室)について調べてみました。
安達景盛の正室?:武藤頼佐の娘
義景 母武藤豊前守頼佐女
引用:『尊卑分脈』
安達景盛の正室が誰だったのかは分かりませんが、承元四年(1210)に、景盛の嫡男・安達城介義景を産んだのは「武藤豊前守頼佐の娘」であると『尊卑分脈』内では記載があります。
武藤氏と言うと、俵藤太こと藤原秀郷の子孫で、名前の通り「武蔵国の藤原氏」の末裔ですね。
安達氏、また同族と言われる足立氏は武蔵国に勢力を持つ武家ですから、同じ武蔵国の有力者の娘との結婚は不思議ではありません。
ただ『武藤系図』などを調べてみましたが、「武藤頼佐」なる名前の人物は探し出すことが出来ませんでした。
武藤氏出身で、頼朝の家人でもあった「武藤資頼」あたりと混同されている可能性も高そうな気がします。
もしも義景室の父が、「武藤頼佐」ではなく「武藤資頼」であるのならば、彼女は九州の戦国大名・少弐氏の祖となった少弐資能の姉妹であるということにもなりますね。
安達景盛の妾(側室):京から来た側室
安達弥九郎景盛爲使節進發參河國爲糺斬(断)重廣之横法也景盛日來頻以固辭使節是若去春之比自京都所招下好女愁片時別離之故歟云々而參河國已爲父奉行國之(上)者無所干遁避之旨有其沙汰遂以首途云々。
引用:『吾妻鏡』
安達景盛は、正治元年(1199)の春に、京都から一人の女性を妾として呼び寄せています。
景盛の嫡男・義景が承元四年(1210)生まれであることなどを考えると、まだこのころ景盛は正室を迎えていなかった可能性も高いように思われます。
もしかしたら景盛の最初の妻だったのかもしれません。
彼女の詳細は分かりませんが、公家の娘が御家人の側室に甘んじるとも思えませんから、白拍子や遊女だった女性でしょうか。
鎌倉の御家人である景盛はいつ彼女と出会ったのかは分かりませんが、頼朝や政子たちの上洛に付き従って上洛した時にでも知り合ったのかもしれません。
景盛はすっかり彼女に夢中だったようですが、もう一人、彼女に夢中になった男がいました。
鎌倉幕府二代目将軍・源頼家その人です。
頼家は景盛が自宅を空けているときに、信頼篤い「五人組」メンバーの中野五郎に命じて、彼女を無理やり略奪しました。
入夜。召件好女〔景盛妾〕於北向御所〔石壷。在北方也〕。自今以後。可候此所云々。是御寵愛甚故也。
引用:『吾妻鏡』
略奪された彼女は、頼家の御所の一角に囲われます。
夫の景盛に合うことはもちろん許されることなく、頼家の側近たちだけが彼女に近づくことを許されると言ったありさまでした。
建仁三年(1203)に、頼家は将軍位を追われ、修善寺に幽閉されることとなります。その時に彼女は頼家から解放されたと思われます。
その後景盛のもとに戻ったのか、それとも別れて京へ戻ったのか?
略奪された景盛の妾がどうなったのかは伝わっていません。
側室?:松下禅尼の母?
景盛には、嫡男義景と、得宗家の北条時氏(北条泰時の嫡男で、のちの執権北条経時・北条時頼の父)に嫁いだ娘・松下禅尼の二人の子がいます。
このうち嫡男・義景は母親が分かっていますが、松下禅尼の母親が誰なのかは伝わっていません。
もちろん、義景同様に武藤頼佐の娘を母親としている可能性は低くはありません。
あるいは京から来て一度頼家に略奪された側室が母親の可能性もあるでしょう。
しかし未知の側室が松下禅尼の母である可能性も否定はできません。
松下禅尼は、実母と娘・檜皮姫(五代将軍頼嗣の正室)を失った後に母親と娘を悼んで供養の願文を刻んだ石柱を立てています。娘に愛された母親だったのでしょう。