羽柴(豊臣)秀長の子供(実子)と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

豊臣秀吉の弟として、秀吉の天下取りのサポートを果たした羽柴(豊臣)秀長。

彼にはおそらく3人の実子がいましたが、秀長の子供たちはそれぞれどのような人物だったのでしょうか。

また兄・秀吉の血は孫娘・天秀尼が未婚のまま死去したことで途絶えましたが、秀長の子孫は後代まで続いていたのでしょうか。

この記事では、羽柴(豊臣)秀長の子供(実子)と、秀長の子孫について調べてみました。

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羽柴(豊臣)秀長の一人息子:羽柴小一郎(木下与一郎【与市郎】とも)

秀長には一人息子・羽柴小一郎(木下与一郎)がいたと言われています。

彼の母親については分かっていませんが、可能性が高いのは秀長正室・慈雲院でしょうか?

彼が生まれたのはいつごろかは分かりませんが、彼が「木下与一郎(与市郎)」と名乗っていたのならば、三木城攻めの将の中に彼はその名前を連ねています。(この与一郎については秀吉の別の親戚という説や、同じく城攻めの将に名を連ねる「木ノ下将監」の親族ではないか?という見方もあるので、確実なことは言えませんが。)

三木城寄手ノ次第 天正六年三月上旬

…(中略)… 一 大塚町上君ヶ峯 木下與市郎

引用:『播磨鑑』

とすれば三木城攻めのあった天正六年三月初旬(1578)の時点で彼はどれほど若くても10歳以上ではあったことかと思われます。

秀長はこの時38歳、秀長が10代~20代くらいに出来た子供なら、10代~20代の若者でもおかしくはありませんね。

若き甥を城攻めの将として起用するくらいですから、秀吉もきっとこの甥には期待を寄せたことでしょう。

ですが、彼は歴史に名を遺すことなく若くして亡くなってしまいます。

いつごろ亡くなったのかは分かりませんが、後に秀長が丹羽家から養子・仙丸(後の藤堂高吉)を迎えているのが天正十年(1582)本能寺の変の直後であることから、いわゆる中国攻めの最中になくなったのでは?と言われていますね。

伝承によると、彼は紀州の十津の湯で湯治をしたそうですが、病は癒えることなく亡くなったとか。

享年は分かりませんが、10代~20代という若い死であったのではないでしょうか。

羽柴小一郎は妻に名古屋因幡守高久の娘(歌舞伎の祖としても名高い名古屋山三郎の妹でもあります)のお岩を迎えていましたが、子供が生まれる前に死に別れてしまいます。

若くして未亡人となったお岩はそのまま舅であった秀長の養女となり、後に初代津山藩主となる森忠政と再婚しています。

羽柴秀長の長女・豊臣秀保正室(おみや、三八、三八女、養春院古仙慶寿大姉?)

和州大納言秀長公姫君三八女

引用:長谷寺金燈篭(天正十六年に羽柴秀長が寄進)

秀長には長女としておみやと呼ばれる娘がいたと言われています。

おみやの母親は分かりませんが、順当に考えるならば秀長正室・慈雲院の可能性が高いでしょうか?

秀長の長女・おみやは父の跡継ぎとなった従兄弟・豊臣秀保(秀長の異父姉・日秀【とも】の息子)と結婚しています。

この時秀保は13歳、おみやはいくつであったかはわかりません。

秀保はそのあとすぐに亡くなった秀長の後継ぎとなり、大和中納言と呼ばれるようになります。

一関白様江 大和御うへ様へより進物

引用:『駒井日記』

おみやは秀保の正室として夫の兄・関白秀次に贈り物を送った様子などが記録に残っています。

しかし、残念ながら結婚から4年後、夫の秀保は急死してしまいます。

病にかかった秀保は十津川で湯治をしたそうですが、急激に容体が悪化してしまったのです。(奇しくもおみやの兄弟・小一郎と同じような亡くなり方ですが、もしかしたらこの二人の伝承が混同されているのかもしれませんね。)

亡くなった当時17歳だった秀保と、おみやの間には子供はなく、秀長から始まる大和大納言羽柴(豊臣)家は断絶することとなりました。

その後のおみやの様子は分かりません。

おみやも秀保同様に、まだ若かったと思われるので、再婚の話などもあったのかもしれませんが、再婚したかどうかも分かりません。

母と思われる秀長正室・慈雲院は隠居料二千石を持っていましたから、母のもとに身を寄せて、再婚することなく悠々自適な生活を送っていた可能性もありますね。

おみやがいつごろ亡くなったのかも、当然ながら伝わっていません。

ただ、おみやは江戸時代初期に亡くなっていたのでは、とする説もあります。

京都・大徳寺の豊臣秀長の墓の隣には、「養春院古仙慶寿大姉」という慶長九年(1604)に亡くなった女性の墓があります。

この女性については秀長の妻の一人ではないか?という説もありますが、豊臣秀保正室であった秀長長女・おみやの墓ではないか?とする説も有力です。

もしも「養春院古仙慶寿大姉」=秀長長女であったのなら、彼女は夫の死からおよそ10年後に死去したということになりますね。

豊臣秀長の次女・大善院(おきく、毛利秀元正室)

一 金子三枚大和おきく様へ

引用:『駒井日記』

室は豊臣太閤秀吉の養女、卒す

引用:『寛政重修諸家譜』

女 秀吉之養女 豊浦宰相秀元之室

引用:『系図纂要』

秀吉、安藝廣島の毛利輝元の養子秀元を朝鮮より召還し、故羽柴秀長の女をして、之に嫁せしむ、

引用:『大日本史料』

豊臣秀長とその側室・興俊尼(お藤、秋篠伝左衛門の娘)との間に生まれた秀長の次女は、『駒井日記』などの記録から、「きく(お菊)」という名前であったと言われています。

彼女は天正十五年(1587)~天正十六年(1588)頃に生まれたと言われています。

生まれてすぐは父に引き取られることなく母一人子一人で育ったようですが、後に父・秀長によって大和郡山城に引き取られ、天下人秀吉の姪として蝶よ花よと育てられたと思われます。

しかし彼女が城に引き取られてほどなくして父・秀長は死去します。

父の死後、おきくは、伯父にあたる秀吉の養女として、毛利家当主輝元の養子で、当初後継者と目されていた秀元に嫁ぎました。

結婚の話が起こったのは文禄三年(1594)頃で、翌文禄四年(1595)の二月にはすでに婚姻が整っています。おきくはまだ10歳にもなっていなかったと思われます。

夫となった秀元は天正七年(1579)生まれで、おきくとはおおよそ8~9歳という年齢差があったと思われます。結婚した当初は夫婦というより兄妹のように見えたかもしれませんね。

しかし結婚したと言うのに、様々な問題が起こります。

夫の秀元は、毛利家当主で子供のいなかった輝元の養子だったのですが、結婚した年に輝元と側室・二の丸殿との間に男子が生まれたため、秀元は毛利家の後継者という立場から外れてしまいます。

そして結婚した翌年、実家の大和大納言豊臣(羽柴)家の当主であった義兄・豊臣秀保が子供なくして早逝、実家が無くなってしまうという目にもあってしまいます。

その後も様々なことが起こりました。関ヶ原の戦いでの毛利家の大減封と改易、そして実家の豊臣家の権威の低下……。

そんな中でも秀元との関係はおだやかなものだったようで、彼女は離縁されることもなく、秀元の正室として過ごしていました。

秀元はすでに20代後半~30代となっていましたが、側室なども迎えていなかったようです。

しかし、おきくは慶長十四年(1609)、秀元に先立って23歳で亡くなってしまいます。

一説には、この時彼女は秀元の初めての子を妊娠している最中だったとか。

おきくの亡骸は父・秀長の眠る京都大徳寺に葬られました。

秀元は彼女の死から4年後、家康の養女である浄明院(元中村一忠正室、家康の姪)を継室に迎えました。また継室・浄明院以外にも、多くの側室を入れて子を産ませています。

秀元は側室たちとの間に生まれた娘たちに「松菊子」「長菊子」「千菊子」「万菊子」とやたら菊にちなんだ名前を付けています。

これは早くに亡くなった正室・おきくにちなんだものだったのでしょうか。その答えは杳としてわかりません。

豊臣秀長に子孫はいない可能性が高い

豊臣秀長には三人の実子(小一郎、おみや、おきく)がいたと言われていますが、この三人には子供がいたと言う記録が残っていません。

長女・おみやのみは夫・秀保死後に再婚していた可能性が否定できません。

が、もしも彼女が大徳寺に葬られた秀長縁者と思われる女性「養春院古仙慶寿大姉」であるならば、慶長九年(1604)に亡くなっており、かなり若くして亡くなっていることとなるため、子孫を残していた可能性はさらに低くなるでしょう。

おそらく、豊臣秀長の子孫は、兄秀吉同様に断絶してしまったものだと考えられます。

ただ養女・お岩(智照院、森忠政継室)や、養子・仙丸(のちに養子縁組解消、藤堂高虎の養子・藤堂高吉に)は子供や子孫に恵まれていますので、間接的には子孫がいる……といっても良いのかもしれませんね。

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