2024年の大河ドラマ『光る君へ』で主役となるのが、吉高由里子さん演じる「まひろ」こと「紫式部」です。
紫式部は当時の女性の多くのように、本名はおろか、生年や死亡した年、また婚姻関係についても多くのことは分かっていません。
今回、この記事では紫式部の周りにいた男性たちを調べてみました。
紫式部の初婚の夫?:紀時文
今日、左大臣、陣に於いて、雑事を定めらる。戌剋、定文を奏す。摂津守理兼朝臣の申す雑事十三箇条、美濃守為憲の申請せる雑事三箇条、伯耆守政職の申す、異損田を免さらるる事、并びに故大膳大夫時文の後家香子の申す事等なり。
引用:『権記』
紫式部の夫としては、後述する藤原宣孝が知られています。しかし宣孝との結婚以前に、紫式部は別の男性と結婚していたのでは?という説もあるのです。
紫式部は本名が分かっていないのですが、「香子」だったのでは?という説があります。
源中納言、来たりて云はく、「按察は右大将、兼ぬべきに、大間に落つ。奏聞し、入れらるべき者なり。掌侍召有り。藤香子を以て任ぜらるべし」てへり。
引用:『御堂関白記』
源中納言、中務少輔孝明を召し、女官除目を給ふ<去ぬる二十九日、掌侍藤原香子を任ず。
引用:『権記』
というのも、寛弘四年(1007)に内侍(掌侍)に任ぜられた藤原香子という女性を、紫式部に比定する説があるのですね。
そして、「香子」という名前は、実はそれよりおよそ10年前、長徳三年(997)に紀貫之の息子である紀時文の後家としても出てくるのです。
そのことから、紫式部=藤原香子=紀時文後家という説が生まれたのですね。
しかし、紀時文は延喜年間の生まれで、紫式部よりもおそらく50歳ほど!年上の男性です。当然ながら紫式部の父・為時ともかなりの年齢差があります。
紫式部=藤原香子説も成立しているとは言い難い説ですから、さすがに紫式部が祖父と孫ほどの年齢差の男性と結婚していたというのは少し無理があるようにも思われますね。
紫式部の夫:藤原宣孝
紫式部が確実に結婚していたことが分かる男性が、中流貴族(受領階級)であった藤原宣孝です。
宣孝は紫式部よりもおおよそ20歳以上年上だと言われており、紫式部よりも年上と思われる息子もいました。
ちなみに清少納言の『枕草紙』にも登場しています。
そこでは寺社参拝の際に宣孝が派手な格好をしていたことが描写されており、紫式部が清少納言を敵視していたのには、このことが影響しているとの説も……。
宣孝は筑前守、太宰少弐など受領を歴任していました。
紫式部との結婚時には宣孝は「山城守」の地位についており、受領としてかなり裕福だったと思われます。
紫式部はこの夫との間に娘・賢子(大弐三位)を儲けました。
母・紫式部に比べると恋の噂が多く、さらに天皇の乳母として権勢を誇ったこの娘は、どちらかというと母親より父親(やり手の受領ではありました)に似たのかもしれません。
この結婚生活がどのようなものだったのか、詳しいことは分かりません。ただ紫式部の和歌を集めたという『紫式部集』中には
久しくおとづれぬ人を、思ひ出でたるをり
引用:『紫式部集』
などというワードも散りばめられており、この年の離れた夫は若い妻を顧みることはあまりなかったのかもしれません。
娘・賢子が3歳になるころには宣孝は疫病で死去します。宣孝死後、経済的な後ろ盾となる夫を失った紫式部は中宮彰子のもとに出仕するようになりました。
紫式部の恋人?:藤原道長
源氏の物語おまへにあるを。とのゝ御らんして。れいのすゝろことともいてきたるついてに。むめのえしイたにしかれたるかみにかゝせ給へる。
すき者と名にし立れは見人のおらて過るはあらしとそ思ふ
たまはせたれは。
人にまたおられぬ者を誰か此すきものそとは口ならしけん
めさましうときこゆ。わた殿にねたる夜。とをたゝく人道長ありときけと。おそろしさに音もせてあかしたるつとめて。
新勅よもすからくゐたよりけに泣々そ槇のとくちに叩侘つる
かへし。
同只ならしとはかり叩く水鷄故あけてはいかに悔しからまし
引用:『紫式部日記』
紫式部は、自身の日記『紫式部日記』に意味深な記述を残しています。
ある時、道長に源氏物語を書くほど好色なあなたを口説かない人はいないでしょうね、とからかわれたので、操を守っている私を「好色だ」とは心外です!と返したとか。
また、ある日の夜中に、藤原道長が紫式部のもとを訪ねて、中に入れるようにと戸を叩いたけれども、紫式部はそれを許さなかった……と。
道長がこれ以後も紫式部のもとを訪れたのか、そしてその後紫式部が道長を受け入れたのか、そのことについては記述がありません。
しかし、この意味深な記述から、紫式部と道長の間に関係があったのでは……?とする説は古来より存在しました。
上東門院女房紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 右衛門佐藤原宣孝室 御堂関白道長妾
引用:『尊卑分脈』
後世の系図などでははっきりと「道長妾」とも書いています。
ちなみに紫式部は、道長の正室で中宮彰子の母親であった源倫子とは遠縁でもあり、その縁で結婚前には倫子の女房をしていたのでは?という説もあります。
もしもそうであるならば、かつての主人の夫で、現在の主人の父である人と関係を結んでいたかもしれない……ですね。
紫式部は、後年中宮彰子と道長に敵対的であった小野宮右大臣・藤原実資の間を取り次いだとして、道長に彰子のもとから追放されたという説もあります。
仮にではありますが、これらの説がすべて本当だったとしたら、道長と紫式部の間の愛憎関係はすさまじいものになっていそうですね。

紫式部にちょっかいを出していた?:藤原公任
左衞門督。あなかしこ。このわたりに若むらさきやさふらふと。うかゝひ給ふ。源氏にかゝるへき人見え給はぬに。かのうへは。まいていかてものし給はんと聞ゐたり。
引用:『紫式部日記』
もともとは「藤式部」つまり、式部大丞藤原為時の娘、という意味合いの名前で呼ばれていた紫式部に「紫」の名前を与えたのが一条朝の四納言の一人で、当代一の才人としても知られていた藤原公任でした。
中宮彰子の待望の第一子・敦成親王(後の後一条天皇)誕生祝いの席で、酔った公任が戯れに「このあたりに若紫はいませんか?」と問いかけたものの、紫式部は公任のことを「光源氏には及ばない人」として、その声には返事をしなかった……という逸話ですね。
この話以後、公任と紫式部の間に何かあった……という話は特に残っていません。
公任は愛妻家でもあったのか、妻として知られている女性も一人(関白・藤原道兼の養女で昭平親王の娘)ですから、紫式部を恋人にしたということもなさそうです。
ただ当代一の才人で、歌才にも優れていた藤原公任ですから、歌人としても名高かった才女・紫式部になんらかの関心を持っていた可能性は高いでしょう。
もしもこの時紫式部が返事をしていたら、何かが始まった可能性はあったかもしれませんね。