蔦屋重三郎の両親(父・母)について

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

2025年放映予定の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公、蔦屋重三郎。

「江戸のメディア王」とも言われる彼ですが、その家族についてはあまり知られていませんね。

この記事では、蔦屋重三郎の両親(父と母)についてまとめてみました。

気になる方は、ぜひ読んでいってください。

蔦屋重三郎の父:丸山重助

喜多川柯理本姓丸山称蔦屋重三郎 父重助母広瀬氏

引用:『喜多川柯理墓碣名』

広瀬氏者書肆耕書堂母也 諱津与江戸人 帰尾陽人丸山氏 生柯理而出

引用:『実母広瀬氏顕彰の碑文』

蔦屋重三郎の父については、蔦屋重三郎の墓碑銘から「丸山重助」という名の尾張出身の人であったことがわかります。

蔦屋重三郎の名前の「重」はこの父親からきているのでしょうね。

父の丸山重助はどのような仕事をしていたのか、なぜ尾張から江戸に出てきたのかはわかりません。

わかることは、江戸出身の女性・広瀬津与と結婚し、間に重三郎が生まれるも、重三郎が七つになる前には離縁していたということです。

蔦屋重三郎自身は江戸・吉原に生まれていますので、重助はあるいは遊郭で働いていた人物(幇間や料理番、不寝番や遊郭の下男など)だったのかもしれません。

ちなみに、尾張藩の『藩士名寄 明治初年写』によると、尾張藩の家臣に「丸山氏」がいるそうですから、もしかしたら尾張藩の浪人で、一旗揚げようと江戸に出てきた人物の可能性も否定できません。

重助と離縁後、重三郎は母の広瀬津与の元を離れ、吉原の茶屋・蔦屋(喜多川氏)に養子に出しました。

別れたとはいえ、重三郎は父、母に対して深い情を抱いていたようです。

後移居油街 乃迎父母奉養為 父母相継而歿

引用:『喜多川柯理墓碣名』

彼は天明三年(1783)に、日本橋通油町に引っ越していますが、この時に父と母を引き取ったそうです。(ということは父・重助は津与と離縁後、再婚などはせず、あるいは再婚がうまくいかず一人暮らしだったのでしょうかね?)

年老いてかつての妻、我が子と同居する生活がどのようなものだったのかはわかりませんが、重三郎は重助が亡くなるまでまめまめしく面倒を見たようです。

一方、蔦屋重三郎は母亡きあと、母を検証するための碑文を作らせていますが、父親に対してはこれといった碑文は残していません。

母と自分を置いて出ていった父親に対して、面倒はみたものの割り切れないものはあったのかもしれませんね。

あるいは母親が偉大過ぎたのか……。

蔦屋重三郎の母:広瀬津与

広瀬氏者書肆耕書堂母也 諱津与江戸人 帰尾陽人丸山氏 生柯理而出

引用:『実母広瀬氏顕彰の碑文』

蔦屋重三郎の母は江戸出身の女性・広瀬津与でした。

彼女は江戸・吉原で尾張出身の丸山重助と夫婦になり、間に蔦屋重三郎が生まれました。

彼女がどのような仕事をしていたのかはわかりません。

重三郎が吉原生まれであることから、「遊女だったのでは?」という説もありますが、そこまではわかりません。

当時の吉原では遊女以外にも多くの女性が働いていました。例えば髪結いの女性、芸者、出入りの商家の店員といった仕事をしていた可能性も否定できません。

もしも遊女だったとしたら、遊女を引退(吉原の遊女は原則27歳で年季明けとなっていました)したあと、知り合いだった重助の妻におさまったのかもしれませんね。

丸山重助と結婚、息子・重三郎に恵まれた津与でしたが、夫婦生活は長続きせず、重三郎が七歳になる前には、重助と別れてしまいました。

そして父を失った我が子・重三郎を吉原の商家・喜多川氏に養子に出しています。

この時重三郎は七歳でした。

重三郎と津与は重三郎が七歳になるまでしか一緒に生活できなかったようですが、重三郎がこの実母に寄せる敬愛の情、そして受けた影響は非常に深いものでした。

予曰吾見人破産而入曲中者矣未聞出曲中而起業者也 子之志不渝則蓋足以見母氏之遺教矣

引用:『実母広瀬氏顕彰の碑文』

重三郎が太田南畝によって書いてもらった津与を顕彰する碑文によると、重三郎の困難をやり遂げる志の強さは広瀬氏の教えによるものではないか……とのことです。

寛政四年壬子十月廿六日広瀬氏病死葬城北山谷正法寺

引用:『実母広瀬氏顕彰の碑文』

重三郎は喜多川氏に養子に出されましたが、それでもなお実の両親に対する思いは強く、天明三年(1783)に父・重助と母・津与を引き取っています。

そして津与は重三郎の世話を受けながら老後を過ごし、寛政四年(1792)に亡くなります。

親子が再びともに暮らすようになってから、10年ほどのことでした。

重三郎は自身の菩提寺でもある正法寺に母を葬ったようです。

ちなみにその5年後、寛政九年(1797)には重三郎は亡くなっています。

40代後半、寿命の短い当時としては珍しくないとはいえ、実母の死が重三郎に与えた衝撃もまた、彼の早い死に影響したのかもしれません。

蔦屋重三郎の両親(父・母)について:まとめ

  • 蔦屋重三郎の父は、尾張出身の丸山重助
  • 蔦屋重三郎の母は、江戸出身の広瀬津与
  • 蔦屋重三郎は後年両親を引き取り、両親の死まで面倒を見た

いかがだったでしょうか。養子に出されたとはいえ、重三郎は実の両親を忘れることなく、面倒を見ていたことがわかりましたね。

蔦屋重三郎の両親については記録が少なく、実際どのような人物だったのかはわからないことが多いですが、大河ドラマでの注目によってまた研究が進むかもしれませんね。

参考文献:『蔦屋重三郎』 日本経済新聞社 昭和63年 松木寛

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