織田信忠の妻と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

織田信長の嫡男、織田信忠。甲州征伐の総大将を務めるなど将来を嘱望されましたが、本能寺の変後、二条城にて明智勢と戦った果てに自刃することとなりました。彼の死後、織田家では後継ぎをめぐっていわゆる清須会議が起こることになるのですが……。

そんな織田信忠ですが亡くなった時は26歳、ひそかに子供や側室がいました。織田信忠の妻や子にはどのような人がいるのでしょうか?

婚約者?:松姫(信松尼)

武田信玄と側室の油川夫人との間に生まれた姫君で、織田信忠より4歳年下でした。織田信長と武田信玄が一時的に同盟を結んだ時に織田信忠と婚約しましたが、後々両家が対立したことから婚約は解消されます。

武田信玄死去後、同母兄の仁科盛信が治める高遠城に移り住みましたが、甲州征伐により、兄の仁科盛信は高遠城にて討ち死に、異母兄武田勝頼らは天目山にて自害、ここに甲州守護武田氏は滅亡します。

松姫は武田一族の姫君たちを連れて武蔵国八王子まで落ち延びました。この頃、徳川家康は松姫を側室に迎えようとしたのでは?とも言われていますが、異母姉の夫の養女の下山殿が代わりに側室となったため、松姫は家康の側室となることを免れました。

信忠は松姫のことを気にかけていたのでしょうか、松姫のもとに迎えの使者を出したのだそうです。松姫自身も複雑な思いながらも、迎えの使者を受け入れ、京への旅に出かけました―その途中で、本能寺の変が起こり、そして二条城にて自害します。松姫は引き返し、八王子にて出家しました。

織田信長が嫡男の妻に滅亡した大名家の娘を迎えることを了解するのか?と疑問にも思いますが、次男信雄の正室も信長によって滅ぼされた伊賀国の北畠家の出身ですが、伊賀国滅亡後も正室であり続けたみたいですから、もしかしたら信長は息子の結婚(誰を正室とするか)にはわりと無頓着な一面もあったのかもしれないですね。

一説には、彼女は実は織田信忠の嫡男、三法師(織田秀信)の母であるという説もあります。そうだとすれば、松姫は武田氏滅亡前に織田信忠の正室に迎えられていたのかもしれませんね。

信忠死後出家した松姫ですが、出家後も松姫の周りにはどこか不幸の影が付きまといます。松姫を庇護した北条氏照の正室・比佐は、小田原征伐時の八王子城合戦時に八王子城内の滝に身を投げて自害したと伝わります。比佐の夫・氏照は兄氏政共々切腹の憂き目にあいました。

松姫は八王子の新たな領主にして武田氏旧臣である大久保長安の庇護下で元和二年に亡くなります。織田家にとってかわった豊臣家の滅亡はその前年のことでした。

正室:いない?

織田信忠は正室をめとることはなかったと言われています。もともとの婚約者は松姫でしたが、松姫とは結婚前に婚約破棄になっています。その後他の女性と婚約していたかは不明です。もしも松姫が三法師(織田秀信)の母だとすると、松姫が正室であった可能性があります。

側室:塩川氏?娘・鈴(寿々?/徳寿院)

一説には摂津国の武将・塩川長満の娘とも。鈴の埋葬場所は近江国の聖衆根来寺ですが、この聖衆根来寺は織田家重臣・森可成の墓所であるため、森氏の縁者(森可成の娘とも)という説もあります。織田信忠の長男・秀信の母だと伝わります。

長男:織田秀信

母は織田信忠の側室・鈴(寿々)、一説では武田信玄の娘・松姫とも。幼名の「三法師」が有名ですね。

清須会議で織田信長の跡取りに任命されますが、後に織田家の家督は叔父の信雄に移ります。岐阜城の城主になり、豊臣政権下では「岐阜中納言」と呼ばれていました。豊臣秀勝(徳川秀忠の正室・江の前夫)の娘・完子と結婚していたという説もありますが、完子は九条家に嫁いでいるのでおそらく違うでしょう。

関ヶ原の戦いの際には西軍に加勢したため、池田輝政・福島正則らが率いる東軍に攻められ、岐阜城を明け渡して本人は出家します。出家後は高野山に赴きましたが、後に高野山を追い出されてすぐに亡くなりました。死因は不明ですが、一説には自害したとも。

「寛政重修諸家譜」などによると秀信には子供はいないそうです。ただ高野山追放時に現地の娘との間に設けた庶子が何人かいたのでは?とも言われています。

側室:名前不詳

次男の織田秀則の母。詳細不明。息子の秀則が基本的に畿内に在住していたことを考えると、畿内の人である可能性もあり。

次男:織田秀則

織田信忠の次男で、織田信忠の死の前年、天正九年(1581)頃の出生だと伝わります。母は不明ですが、「織田秀信の異母弟」と伝わるため、塩川氏ではない可能性が高いでしょう。兄とは異なり大名ではなかったため、長年大阪に居住していたようです。関ヶ原の大戦時に一時的に岐阜城で兄とともに籠城戦を行いました。兄の改易後は豊臣家を頼って大阪へ、豊臣家滅亡後は京都で過ごしていたようです。寛永年間に亡くなりました。

一説では妻は豊臣秀勝(徳川秀忠正室・江の前夫)の娘と結婚していたと伝わりますが、おそらく兄の伝承と混じった可能性が高いです。

孫娘?:小笠原因幡守側室

次男・秀則の娘だと伝わります。織田信長のひ孫にあたる人物なのに、正室ではなくて側室というのはどこか悲しいような。「小笠原因幡守」が誰か?なのですが、調べてみましたが小笠原家に「因幡守」を名乗っている人は特定できませんでした。それらしき人はいるのですが……。

まず、天草・島原の乱における歴史資料「天草・島原の乱手負討死一件」中における「大名衣馬験」の中に「小笠原因幡守」がいるらしいことだけは発見できました。

小笠原氏で島原の乱に参戦していたのは、小倉藩藩主小笠原忠真、もしくは中津藩藩主小笠原長次(小笠原忠真の亡くなった長兄の息子)のどちらかだと思われたのですが、前者については「小笠原右近」、後者については「小笠原信濃守」の可能性もあり……。小笠原忠真の弟で当時杵築藩主だった小笠原忠知も島原の乱に参戦しているようなので、忠知の可能性もありますね。

また『寬永諸家系図伝』によると、小笠原貞政なる人物も「因幡守」?だったようです。この貞政というのは、小笠原忠真の父・小笠原秀政のことだそうですね。どちらにせよ、徳川家康の孫娘の嫁ぎ先(また織田信長の孫娘の嫁ぎ先でもある)小笠原氏と織田秀則は深い関係にあったのでしょうね。

織田信雄の妻(正室、継室、側室)たち
織田信長の次男であり、小牧・長久手の戦いにおいて家康の同盟者となったのが織田信雄です。 後には、家康の三男にして後継者となった秀忠に娘・小姫を正室として輿入れさせるなど、家康とは良い関係を築いていました。 信雄はたびたび父とは異なり愚鈍...

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