藤内光澄~木曽義仲の長男・源(木曽)義高を殺した男~

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

平安末期から始まる武士の時代では、多くの人々が非業の死を遂げています。

明日をも知れぬ命ですから、生き延びるために多くの人が抜け目なく立ち振る舞い続けました。

そんな中、主君の命令を守ったにもかかわらず獄門に処されてしまった人物もいました。

それが藤内光澄、源頼朝の命に従って木曽義高(木曽義仲の長男)を討ち取った武士でした。

藤内光澄の出自

藤内光澄は、伊豆国の武士堀親家の郎党(家来)でした。そのため、藤内光澄自身も伊豆国の武士だったと思われます。

「藤内」という苗字は、内舎人(天皇の身辺警護などを行う)に任ぜられた藤原氏、ということを意味します。

おそらく藤内光澄は藤原氏出身で、先祖が内舎人を務めていたのでしょう。

内舎人の中には摂関家の随身を務めた者もいたそうですから、藤内光澄自身、もしくは先祖は摂関家や公家の家人であったこともあるかもしれません。

藤内光澄と堀親家、源頼朝

藤内光澄は堀親家の郎党でした。

藤内光澄の主人であった堀親家は、山木兼隆邸襲撃、石橋山の戦いにも源氏方として参戦するなど、頼朝挙兵時から忠実に頼朝に仕え続けました。

藤内光澄自身も、頼朝本人と面識はあったのかもしれません。

その忠節ゆえに、鎌倉から出奔した木曽義高の追討を命じられることとなったのでしょう。

藤内光澄と木曽義高

堀藤次親家郎從、藤内光澄、歸參於入間河原、誅志水冠者之由、申之此事雖爲密儀、姫公、已令漏聞之給、愁歎之餘、令斷漿水給可謂理運御臺所、又依察彼御心中、御哀傷、殊太然間、殿中男女、多以含歎色〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

堀親家は、頼朝の命令を受けて武蔵国入間河原にて、鎌倉を出奔した木曽義高に追いつきます。

藤内光澄は、この時、木曽義高を討ち取るという大手柄を立てます。

このことは鎌倉にはひそかに伝えられていたようですが、なぜか義高の婚約者であった大姫の耳にこっそりと入ってしまいました。

大姫、そして大姫の母である北条政子、そして鎌倉幕府に仕えていた多くの人々が義高の死を惜しみました。

ことに大姫の悲嘆は激しく、彼女はその後長い間床に臥せり、そして結婚の話が出るたびに激しく拒絶したといいます。

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藤内光澄の最期

藤内光澄としては、主君である頼朝の命を果たしたのですから、意気揚々と鎌倉に帰ったことでしょう。

しかしそこで待っていたのは頼朝の正室・北条政子の怒りでした―

頼朝は正室政子の怒りを押しとどめることはできませんでした。

光澄は、義高を討ち取ったおよそ2カ月後、元暦元年(1184)6月27日に処刑されました。その後、彼の首はさらし首にされます。

藤内光澄に子孫がいたかどうかは分かりません。

この時代のことですから、子供がいたとしてもその財産を引き継ぐことは許されなかったかもしれません。

藤内光澄の主であった堀親家は、連座することなくその後も頼朝に仕え続けます。

しかし、二代将軍頼家の時代に、頼家の使者として北条氏打倒の動きに関与したため、殺害されることとなりました。

藤内光澄は『鎌倉殿の13人』には出るのか?

藤内光澄の事績と言えば、なんといっても木曽義高を討ち取ったということでしょう。

木曽義高は『鎌倉殿の13人』では、市川染五郎さんが演じることでも話題になっていますから、おそらくその死も描かれる可能性が高いように思われます。(いわゆる「ナレ死」の可能性も否定できませんが……)

その後の光澄の処刑まで描かれるとも思いませんが、政子激怒シーンなど、何らかの形で藤内光澄も出演してもおかしくはなさそうですね。

 

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