本多忠勝の妻(正室、側室)たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

徳川四天王にして徳川三傑でもある、徳川家康の重臣・本多忠勝。

生涯多くの戦に出陣しながらも、傷一つ負わなかったと言われるほど頑健であったことでも知られていますね。

そんな本多忠勝の妻(正室、側室)について調べてみました。

本多忠勝の正室:於久の方(阿知和玄鉄娘・見星院)

本多忠勝の正室は阿知和玄鉄の娘である於久の方です。

於久の方の父親である阿知和玄鉄は、松平家の分家である能見松平家の松平重親の長男で、松平玄鉄(松平重玄)とも名乗りました。

忠勝からすると、於久の方は主人にあたる家康の親戚筋の姫君にあたるわけですね。そのこともあってか、先に嫁いでいた乙女の方ではなく於久の方が正室となったようです。

於久の方と本多忠勝は、永禄12年(1569年)10月、家康が仲立ちをして結婚しました。

於久の方は、忠勝の嫡男である本多忠政、忠勝の次男である忠朝と、娘1人(忠勝の五女)を産んでいます。

於久の方所生の娘1人が誰を指すのかは分かりませんが、奥平家昌正室のもり姫、もしくは本多信之(真田信之と紛らわしいですね)の正室のどちらかの可能性が高そうです。

慶長6年(1601年)、本多忠勝は桑名藩10万石へと移されますが、於久の方は、次男忠朝とともに忠勝旧領の大多喜にとどまったようです。

忠勝はそのまま桑名で過ごし、慶長14年(1609)に亡くなっていますので、おそらく、於久の方は夫の臨終には立ち会えなかったのではないでしょうか?

彼女はそのまま大多喜で過ごし、慶長18年(1613年)10月27日に亡くなります。それから2年もたたないうちに、次男忠朝が大坂夏の陣で凄絶な戦死を遂げるのを知ることはありませんでした。

本多忠勝の側室:乙女の方(松下弥一娘・月量院)

本多忠勝の側室は、「乙女の方」のみが知られています。

乙女の方は、松平氏家臣・松下弥一の娘でした。乙女の方が幼いうちに、松下弥一は亡くなってしまい、乙女の方は岡崎城下の妙源寺という寺に預けられてしまいます。

しかし、そこには孫氏の兵法を習いに、幼い本多忠勝少年が通い詰めていたのです。自然と二人はひかれあいます。

永禄9年(1566年)、忠勝は青年騎馬隊隊長となり、約3万6千石の所領と、岡崎城黒御門内に侍屋敷を拝領しました。

そこに、忠勝は、自身の母親の小夜と、初恋の人である乙女を呼び寄せます。ここに二人は実質的な夫婦となりました。

乙女の方と忠勝が結ばれた3年後、忠勝は家康の親戚である於久の方と結婚します。しかし、乙女の方と疎遠になったわけではありません。

乙女の方は天正元年(1573)、本多忠勝の初子となる小松姫(真田信之に嫁ぐ娘)を産みました。その後、続けて3人の娘を産みます。

3人の娘については、本多忠勝の家臣である松下重綱と蒲生瀬兵衛に嫁いだ2人の娘はおそらく含まれているものだと思いますが……もう一人の娘は分かりません。

奥平家昌正室もり姫、もしくは忠勝の同族と思われる本田信之に嫁いだ娘のどちらかでしょう。

乙女の方は本多忠勝のそばにずっとあり続けました。忠勝は関ケ原の戦い後に桑名に移封されますが、正室於久の方と違い、乙女の方は桑名まで同行しています。(於久の方は於久の方で、次男忠朝のサポートなどもあったため同行できなかったものかと思われます。)

乙女の方が亡くなったのがいつのころかは分かりません。ただおそらく、慶長14年(1609)の忠勝の死を見届けた後のことではないでしょうか。

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