築山殿(瀬名姫)は武田の間者と密通(不倫)したのか?

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

大河ドラマ『どうする家康』では、瀬名姫と家康は別居こそしていますが、夫婦としてお互いを尊重し、愛し合っている様子が見受けられます。

とはいえど、浜松と岡崎、別居状態にあった二人が果たして本当に最後まで愛し合っていたのか?というのはかなり不透明であり、実際築山殿には「密通(不倫)していたのでは?」という伝承が残されています。

この記事では、築山殿(瀬名姫)の密通(不倫)疑惑について取り上げてみました。

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築山殿(瀬名姫)は甲州浪人(唐人?)で医師の「減敬(滅敬)」と不倫していたという伝承がある

甲州より来りし減敬と言唐人あり…(中略)…是より減敬をめていとおしみ給ふ事並々ならず常に閨の中にとめ置き給ひ花酉の色にも音にもあらすむつみうたらはせ給ふ様ハ古への道鏡のためしも引出すべし

引用:『改正三河後風土記』

築山殿の不倫(密通)については、『三河物語』、またそれを改定した『改正三河後風土記』などに赤裸々に書かれています。

減敬は甲州(=甲斐、つまり武田方)から来た唐人医師で、信康の治療に当たったことから築山殿(瀬名)と懇意になり、孤閨をかこっていた築山殿は彼に夢中になった……というのですね。

築山殿が減敬を愛する様子は奈良時代に女帝・称徳天皇の寵愛を受け、天皇にまでなりかけた僧侶・道鏡にまでなぞらえられています。

彼に夢中になった築山殿は、彼を通して武田方に密書を出すなど武田氏に接近したといいます。

しかし息子嫁の五徳(徳姫)にこれがばれてしまい、最終的に信長にチクられることとなった……そうなのですが。

とはいえど、実際これがどこまで本当なのかは怪しいところだったりします。

まずこの話が載っているのは『三河物語』、『改正三河後風土記』なのですが、これはいわゆる「徳川史観」、つまり徳川幕府万歳!に基づいて描かれたプロパガンダもりもりの歴史書なわけです。(『三河物語』の成立は江戸時代初期であり、すでに築山殿の死から数十年たった後のこととなります。)

江戸初期の将軍(秀忠ら)からすれば、すでに亡くなっているとはいえ、異母兄信康、そして父の亡き正妻・築山殿の存在は微妙なものなわけで……。

ましてやこの二人の死を事実上命じたのが神君家康、であるわけですから、家康を正当化するためには、なんとしても家康が死を命じるのもしょうがない状況を作り上げる必要があるわけです。

そのため、この不倫(密通)の話も、築山殿(瀬名姫)を「家康に死を命じられてもおかしくない人物」として描くために作られた話である可能性は否定できないでしょう。

築山殿(瀬名姫)の不倫(密通)の可能性は低いと思われる

同時代史料では、築山殿の密通(不倫)疑惑については特に取り扱われていません。

もしもそのようなことがあったのなら、例えば、家康の家臣であった松平家忠の日記『家忠日記』などでも取り上げられていてもおかしくないでしょうが、そのような記録は残されていないのです。

そもそも正室にして、嫡子の母親でもある女性が密通などという軽はずみな行動はなかなかとらないように思われます。

ましてや彼女はすでに帰るべき家もない状態で、生きるためには家康にすがる必要もあったわけですから、家康の機嫌を損ねかねない行為をするでしょうか。

むしろ、『家忠日記』などを読む限りだと、家康と信康の間には家臣団(岡崎の家臣と浜松の家臣)の違いからなる争い・不和があり、築山殿の死はあくまでもそれに巻き込まれただけのようにも受け取れます。

とはいえど、同時代の武田信玄は廃嫡した嫡子・義信の母・三条の方を彼女が亡くなるまで正室として遇しましたが、家康はそうはしなかったわけです。

息子ともども、築山殿を切り捨てました。

そこにあるいは、築山殿の家康に対する裏切り……密通ではなくても、息子信康の肩を持った、などといったことは影響していたのかもしれませんね。

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