清少納言の夫・恋人たち

古代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

日本初のエッセイともいわれている『枕草子』の作者、清少納言。

大河ドラマ『光る君へ』ではファーストサマーウイカさん演じる「ききょう」として姿を見せていますね。

ドラマの中ではどうも藤原斉信とのフラグが立ちそうな感じ?ですが、実際のところ清少納言の夫や恋人にはどのようなひとたちがいたのでしょうか。

この記事では『枕草子』などを参考に、彼女と深いかかわりを持っていたと思われる男性たちを紹介していきます。

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清少納言の夫①:橘則光

清少納言は宮仕え前に、すでに結婚していたことがありました。

相手は清少納言と同じく中流貴族出身の橘則光、花山天皇の乳母子であり、花山天皇の世が長く続いたなら出世したかもしれない男性でした。

武勇に優れた人物である一方で、妻・清少納言相手にはわりと柔和に接していたようです。

ただ歌人一族生まれの妻・清少納言に対し、本人は

おのれを思さむ人は、歌をなむよみて得さすまじき。すべて仇敵となむ思ふ。

引用:『枕草子』

とあまり和歌はあまり得意意識を抱いていなかったようです。(一方で地味に勅撰和歌集に和歌が選ばれるなどしているので、まったく和歌ができなかったわけではなかったようですが……。)

二人の間には、一子・則長が生まれます。

しかし、歌人の娘と武芸を重んじる男とではあまりうまくいかなかったのでしょうか。

清少納言が宮中に出仕するようになったころには、二人は別れてしまっていました。

左衛門の尉則光が来て、物語などするに、「昨日宰相の中将の参り給ひて、『いもうとのあらむ所、さりとも知らぬやうあらじ。いへ』と、いみじう問ひ給ひしに、さらに知らぬよしを申ししに、あやにくにしひ給ひしこと。」

引用:『枕草子』

清少納言と則光は離婚した後もなんだかんだ付き合いは続いたようで、宮中では「いもうと・せうと」(=夫婦)のような扱いではあったようです。

清少納言は一時期実家に帰っていたのですが、その際にあまり人と会いたくない……ということで実家を数少ない人にしか教えなかったのですが、その数少ない人には則光はきちんと入っていました。

ただいつのころからか二人は疎遠になっていきました。

 さて、かうぶり得て、遠江の介といひしかば、にくくてこそやみにしか。

引用:『枕草子』

そんな中、則光は遠江の受領となって現地に下向し、物理的にも距離ができたことで二人は完全に切れてしまったようです。

則光は遠江の受領となったのはちょうど中関白家没落の時期とも被るので、そのあたりも影響したのかもしれません。

則光は後々、光朝法師母(橘行平の娘)と再婚しており、夫婦が復縁することはついぞなかったようです。

余談にはなりますが、清少納言と則光の間に生まれた息子・則長は歌人として名高い能因法師の姉妹と結婚しており、枕草子の写本の系統の一つ・能因本の誕生にはこの親戚関係が影響しているといわれています。

清少納言の夫②:藤原棟世

前摂津守藤原棟世朝臣女、母清少納言、上東門院女房、童名狛、俗称小馬

引用:『後拾遺和歌集抄』

清少納言は則光との離婚後、藤原棟世なる中級貴族と再婚したといいます。

前夫の則光は清少納言と同年代でしたが、この藤原棟世は村上天皇の時代(清少納言が生まれたころ)にすでに朝廷の役人となっていることから、清少納言よりかなり年上の男性であったと思われます。

二人の間には娘が一人生まれており、のちに中宮彰子(上東門院)に小馬命婦の名前で仕えています。

清少納言と藤原棟世の再婚の時期はよくわかりませんが、寛弘5年(1008)頃にすでに小馬命婦が女房となっているので、清少納言の宮中出仕(993)前のことでは?ともいわれています。

しかし前夫の則光の名前は出てくるのに、棟世の名前は『枕草子』中には全く出てこないのはなぜなんでしょうね。

現在の夫の名前を書くのはさすがの彼女も照れ臭かったのか……?

そして清少納言は中宮(皇后)定子の死後宮中を退いた後、夫の棟世に従って彼の任国である摂津に一時期身を寄せていたようです。

この時点ですでに老人であった棟世と清少納言の夫婦生活がいつまで続いたかはわかりません。

一説には、棟世はこの後すぐに摂津守在任のまま亡くなったといいます。

棟世との別れののち、清少納言が再婚したかどうかは伝わっていません。

清少納言の夫?:藤原信義

清少納言という名前(女房名)は、「清原氏の少納言の娘・妻・姉妹」といったニュアンスがあります。

そうすると、清少納言は親族に「少納言」の役職についていた人がいたはず……なのですが、実は、清少納言の父や兄弟には、実は「少納言」であった人物はいません。

元夫であった則光も、少納言ではありませんでした。

そのことから、少納言の職についていた藤原信義(父親の藤原元輔が、清少納言の父・清原元輔とかかわりがあったといいます)と清少納言は結婚していたのでは?という説があります。

ただ「少納言」の由来には諸説あり、先祖の清原有雄にちなむものなどとする説もあり、実際に信義と清少納言が結婚していたかというと、不明といわざるを得ません。

清少納言は宮中に出仕する前にすでに橘則光、藤原棟世と二人の夫を持っていた可能性が高く、出仕した時点でおそらく20代後半~30代ころだった彼女がそこまでコロコロ夫を変えていたのか?というとちょっと可能性が低そうですね。

清少納言の恋人:藤原実方

元輔がむすめの、中宮にさぶらふを、おほかたにて、いとなつかしうかたらひて、人には知らせず、絶えぬ仲にてあるを、いかなるにか、久しうおとづれぬを、おほぞうにてものなど言ふに、女さしよりて、「忘れ給けるよ」といふ

引用『実方集』、

小兵衛といふが、赤紐のとけたるを、「これ結ばばや。」といへば、実方の中将よりてつくろふに、ただならず。

引用:『枕草子』

清少納言は枕草子中ではあまり関係が深かったようには書いていないのですが、藤原実方の『実方集』の詞書などから、藤原実方と清少納言が恋愛関係にあったことはほぼ間違いないのでは、といわれています。

実方は風流人としても知られており、歌人の娘として漢籍などの素養があった清少納言とは雅なやりとりを楽しんだようです。

しかし二人の恋愛はさほど長続きはしなかったようです。

実方は左大臣・藤原師尹の孫という恵まれた血筋の持ち主でしたが、父が早世するなどしたためなかなか昇進できず、陸奥守として現地に下向した際に40歳ほどの若さで亡くなっています。

宮中にて、その報に接したであろう清少納言が何を思ったのかは伝わっていません。

清少納言の恋人?:藤原斉信

 果てて酒飲み、詩誦しなどするに、頭の中将斉信の君の、「月秋と期して身いづくか。」といふことをうちいだし給へりし、はたいみじうめでたし。いかで、さは思ひ出で給ひけむ。

おはします所に、わけ参るほどに、立ち出でさせ給ひて、「めでたしな。いみじう、今日の料にいひたりけることにこそあれ。」と宣はすれば、「それ啓しにとて、もの見さして参り侍りつるなり。なほいとめでたくこそおぼえ侍りつれ。」と啓すれば、「まいて、さおぼゆらむかし。」と仰せらる。

引用:『枕草子』

恋人、というよりは清少納言の「推し」とでもいうべき人物が藤原斉信ですね。

『枕草子』中では頭中将、もしくは宰相中将(昇進しています)として出てきますね。

彼女が斉信と親しく、また斉信のことを好ましく思っていたことは主人である中宮定子にもよく伝わっていたようで、時にはそのことでからかわれることもあったようです。

時には痴話げんかのようなこともしながらも、二人はかなり親しく付き合っていたようです。

ただこの二人の関係はあくまでも親愛、友達以上のようではありながらも恋人未満であったようで、

「などか、まろを、まことにちかくなむおぼゆる。かばかし年ごろになりぬる得意の、うとくてやむはなし。殿上などに、あけくれなき折もあらば、何事をか思ひ出でにせむ。」と宣へば、
「さらなり。かたかるべきことにもあらぬを、さもあらむのちには、えほめたてまつらざらむが、くちをしきなり。上の御前などにても、やくとあづかりてほめきこゆるに、いかでか。ただおはせかし。かたはらいたく、心の鬼出で来て、いひにくくなり侍りなむ。」といへば、

引用:『枕草子』

斉信は清少納言に「なんで本当に恋人になってくれないの?」と(冗談めかしてかもしれませんが)言ったこともあったようですが、それに対して清少納言は「もしも本当に恋人になってしまったらあなたのことを今のように素直に人前でほめることができなくなってしまいますわ」と返しています。

あくまでも女房と殿上人の優雅な恋愛めいた遊戯、そのラインは決して越えなかったようですね。

ちなみに斉信は清少納言の元夫・則光とも仲が良かった(則光は斉信の家司だったともいいます)ようで、彼女がひそかに実家の方に帰っていた時に則光に清少納言の居所を訪ねたりもしています。

元夫と、友達以上恋人未満のボーイフレンドとの三角関係と考えると、なんか複雑な関係ですね……。

清少納言の恋人?:藤原行成

頭の弁の、職に参り給ひて、物語などし給ひしに、夜いたうふけぬ。
「あす御物忌なるにこもるべければ、丑になりなばあしかりなむ。」とて、参り給ひぬ。

引用:『枕草子』

『枕草子』本文中では「頭の弁」として出てくるのがのちの一条朝四納言の一人、藤原行成です。

三蹟の一人として知られるほどの書家である文化人・行成とのやり取りはなかなか楽しいものであったようで、清少納言も彼の名前をたびたび『枕草子』内で記しています。

とはいえど、斉信と同じくあくまでも友達以上恋人未満の関係を保っていたようですが……その一方でこっそりと行成は清少納言の顔を垣間見たりすることもあったようで、かなり不思議な友情?を築いていたようです。

ちなみに百人一首にもとられた清少納言の和歌

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ

は、彼との交流の中で生まれたものでした。

後に行成は定子の一人息子・敦康親王の家司を務めたりしています。

行成自身は道長の派閥の人間でしたが、それでも定子の皇子とかかわりを持っていたというのは面白いですよね。

清少納言は定子の子供・孫(一品宮脩子内親王や敦康親王の一人娘・嫄(げん)子女王など)に仕えていた……という説もあるようですから、もしも彼女が定子の子孫に仕えていたのなら、行成との交流はひそかに続いていたかもしれませんね。

清少納言の恋人?友人?:源宣方

みな寝て、つとめて、いととく局に下りたれば、源中将の声にて、「ここに、草の庵やある。」と、おどろおどろしくいへば、「あやし。などてか、人げなきものはあらむ。玉の台ともとめ給はましかば、いらへてまし。」といふ。

引用:『枕草子』

藤原斉信らとともに、清少納言とかかわりを持っていた公卿の一人が、「源中将」こと源宣方でした。

彼は六条左大臣・源重信の息子で、藤原隆家(中宮定子の同母弟)の妻の兄弟であったことから、中宮定子と関係の深い貴公子の一人でした。

ただ藤原斉信が風流な貴公子として枕草子では描かれるのに対して、宣方はややコミカルな描かれ方をすることが多いような感じですね。

斉信と清少納言の風流なやり取りに興味を持ったり、清少納言を変わったあだ名で呼んでみたり……。

そんな宣方ですが、長徳四年(998)、疫病にかかって若くして亡くなっています。

『枕草子』内でコミカルに描いているのは、若くして亡くなった彼の元気な姿を少しでも後世に伝えたかったのかもしれませんね。

清少納言の恋人?友人?:源経房

あまりうるさくもあれば、このたび出でたる所をば、いづくとなべてには知らせず。
左中将経房の君、済政の君などばかりぞ、知り給へる。

引用:『枕草子』

左中将、まだ伊勢守と聞こえしとき、里におはしたりしに、端の方なりし畳をさしいでしものは、この草子載りていでにけり。惑ひとり入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし。それよりありきそめたるなめり、とぞ本に。

引用:『枕草子』

『枕草子』が世に出回るきっかけを作った人物が、「左中将」として出てくる源経房です。

彼は源高明の五男で、藤原道長の妻の一人・高松殿こと明子の兄弟で、姉婿道長の猶子にもなっていたといいます。

その一方で中関白家側の人間とも親しく、藤原隆家の息子に娘を嫁がせるなどしています。

清少納言も彼を信頼していたようで、実家にひそかに帰っていた時に実家の場所をこっそり教えるなどしていました。

女房として復職するか迷っていた清少納言を説得するなど、清少納言をかなりサポートしてくれていたようですね。

恋人というよりは、かなり親しい友人であったことは間違いないでしょう。

清少納言の恋人?友人?:源済政

あまりうるさくもあれば、このたび出でたる所をば、いづくとなべてには知らせず。
左中将経房の君、済政の君などばかりぞ、知り給へる。

引用:『枕草子』

藤原道長の正室・源倫子の甥である源済政とも清少納言は親しく付き合っていたようです。

彼女が実家にひそかに帰っていた時に、元夫・則光や左中将源経房らとともに、彼女の実家の場所を教えてもらっていた数少ない人物だったようです。

清少納言憧れの人?:藤原伊周

夜中ばかりに、廊に出でて人呼べば、「下るるか。いで、送らむ。」と宣へば、裳、唐衣は屏風にうちかけて行くに、月のいみじうあかく、御直衣のいと白う見ゆるに、指貫を長う踏みしだきて、袖をひかへて、「倒るな。」といひて、おはするままに、「游子なほ残りの月に行く。」と誦し給へる、またいみじうめでたし。「かやうの事、めで給ふ。」とては、笑ひ給へど、いかでか、なほをかしきものをば。

引用:『枕草子』

清少納言の主人・定子の兄である伊周は叔父・道長に政争で負けた悲劇の人として知られますが、彼はかなり才知にあふれる人物だったようで、清少納言はたびたび枕草子にて彼のエピソードを披露しています。

昼つ方、大納言殿、桜の直衣のすこしなよらかなるに、濃き紫の固紋指貫、白き御衣ども、うへに濃き綾のいとあざやかなるを出だしてまゐり給へるに、うへのこなたにおはしませば、戸口の前なるほそき板敷にゐ給ひて、ものなど奏し給ふ。

引用:『枕草子』

伊周の才知はもちろん、その優しさやファッションセンスまで清少納言は絶賛していますね。

彼のすばらしさをたたえるエピソードの多さはまるで、清少納言から当代一の風流貴公子に対する憧れを表しているようです。

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