北条時氏の妻(正室・側室)と子と子孫たち

中世史(日本史)

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『御成敗式目』を制定するなど、鎌倉幕府の安定化を図ったことで知られる三代目執権・北条泰時。

泰時の後継者は、三浦義村の娘との間に生まれた嫡男・時氏でしたが、彼は早世してしまいます。

しかし、時氏の子たちが祖父の跡を継いだことで、時氏の血筋は繁栄していきました。

偉大な父と息子たちに挟まれて、イマイチ影の薄い北条時氏ですが、彼の妻(正室、側室)や子供たちにはいったい誰がいるのでしょうか。

気になったので調べてみました。

北条時氏の正室:松下禅尼

松下禅尼者、秋田城介景盛女、北条時氏孺人時頼母也、

引用:『本朝列女伝』

北条時氏の正室は、御家人の安達景盛の娘・松下禅尼でした。

松下禅尼の父・安達景盛は、比企尼の娘・丹後内侍と、『鎌倉殿の13人』である13人の御家人の一人・安達盛長の間に生まれた子供です。

つまり、松下禅尼は北条氏によって滅ぼされた比企氏の血をひいている女性ということになりますね。

松下禅尼と時氏の結婚がいつの頃の事なのかはよく分かりません。

ただ、この二人の間に最初に生まれたと思われる長男・北条経時が元仁元年(1224)頃の生まれと考えられることなどをふまえると、おそらく承久の乱以後のことではないでしょうか。

時氏は寛喜二年(1230)に早世してしまい、結婚生活は10年たらずの短いものでした。

しかし、松下禅尼は四代目執権・北条経時や五代目執権・北条時頼、三男の鎮西奉行・北条時定(阿蘇家祖、北条為時とも)や、五代目将軍藤原頼嗣の将軍御台所・檜皮姫ら多くの子をこの結婚生活で得ることとなりました。

夫と死別後、出家した彼女は、もっぱら実家の甘縄邸にて生活を送っていたようです。

しかし嫁ぎ先である北条氏の縁が切れているなんてことはなく、息子の時頼の正室の出産時には甘縄邸で出産の面倒を見ていたりもしていました。(この時生まれたのが、後の八代目執権・北条時宗です。)

相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、すすけたる明り障子のやぶればかりを、禅尼手づから、小刀して切りまはしつつ張られければ、

引用:『徒然草』

彼女の人柄については、『徒然草』に載せられたエピソードが有名でしょう。

鎌倉の権力者の母親でありながら、息子のために倹約の姿勢を示そうとした賢母として、彼女は後世まで評価されています。

松下禅尼は夫・時氏、娘・檜皮姫、息子・経時ら、多くの人の死を見送った後、松下禅尼は亡くなったようです。

詳しい没年は定かではありませんが、孫・時宗の生前には没していたようです。

多くの人と死に別れた一生でしたが、従甥・安達泰盛ら、安達一族が粛清されることは知らずに入れたのはまだ幸いだったのかもしれませんね。

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北条時氏の側室:不明

北条時氏に側室がいたかどうかは定かではありません。

ただ、松下禅尼との結婚生活は10年ほどであるのに対し、時氏には7人(3男4女)の子供がいたといいます。

10年間で7人……産めないことはないかもしれませんが、女子たちの幾人かは、側室の所生であると考える方が自然な気がします。

御家人の娘、もしくは六波羅探題で在京中に迎え入れた京女などの側室がいた可能性はそれなりにあるように思われます。

北条時氏の子孫たち~北条時氏の子供たち~

北条時氏には、3人の息子と4人の娘がいたようです。

彼ら彼女らは子孫を残したのでしょうか?まとめてみました。

北条時氏の長男:北条経時

北条時氏と松下禅尼の間に生まれた長男・経時は、若くして祖父・泰時の跡を継いで執権となりました。

しかしその執権の業務の過酷さゆえか、過労死とも言われるような亡くなり方をしました。彼は若いのにも関わらず、病気に苦しみ早世したのです。

そんな経時は、正室・宇都宮泰綱の娘との間に子供はいませんでしたが、側室との間に2人の男児を残していました。

しかし男児たちは幼さ、また出自の関係もあってか、父の跡を継ぐことを許されませんでした。

経時の息子たち二人はいずれも僧籍に入りました。(彼らは長じて、隆政、頼助と名乗るようになります。)

当然ながら彼らは子孫を残してはいません。頼助の死により、経時の血筋は途絶えました。

北条時氏の次男:北条時頼

兄・経時の死後跡を継いだのは、北条時氏と松下禅尼の間に生まれた次男・北条時頼でした。

彼はのちに時氏の従姉妹にあたる葛西殿(北条重時の娘)を正室(正確には継室)に迎え、八代目執権・北条時宗を儲けました。

時頼の子孫は得宗家の嫡流として、鎌倉幕府滅亡まで続きます。

また側室との間にも何人かの子を儲けています。

側室の一人・辻殿との間に儲けた北条宗頼の娘は北条家の傍流である赤橋家に嫁ぎ、室町幕府初代将軍・足利尊氏の正室・赤橋登子を儲けました。

登子の息子・足利義詮ら足利将軍家もまた、時頼の子孫だということになります。

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北条時氏の三男:北条時定(為時)

兄二人が執権となった影に隠れがちですが、時氏と松下禅尼の間に生まれた三男に北条時定(為時)がいます。

彼は阿蘇の荘園の領主、そして鎮西奉行として、主に西国で活動したようです。

元寇時には甥・時宗に代わって現地で対蒙古軍の最前線を張っていたようです。

彼の系統は「阿蘇氏」を名乗りますが、時定の実子・時家らは早世したようです。

跡を継いだ定宗は諸説ありますが、次兄・時頼の孫であるようですね。

この家系は、時定のひ孫の代で鎌倉幕府滅亡を迎え、当時の当主が処刑されたことで断絶します。

ちなみに、時定の娘たちは斯波氏、渋川氏に嫁いでおり、この家系はのちに室町幕府の有力守護大名家(管領斯波氏、九州探題渋川氏)となります。

北条時氏の娘:檜皮姫(九条頼嗣室)

北条時氏と、(おそらくですが)松下禅尼の間に生まれた娘・檜皮姫は、五代目将軍となる九条頼嗣に嫁ぎました。

九条頼嗣は結婚時わずか10歳、そして檜皮姫は輿入れから2年後に亡くなっています。当然ながら、子供はが生まれることはありませんでした。

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北条時氏の娘:足利泰氏室

女子 源頼氏母

引用:『尊卑分脈』

北条時氏の娘の一人は、源氏の流れをくむ有力御家人・足利泰氏に嫁ぎます。

しかし、夫の泰氏にはすでに正室として父の従姉妹にあたる名越朝時の娘が嫁いでいたのですが……足利氏は得宗家にしっぽを振って、名越朝時の娘を側室に落とし、時氏の娘を正室としました。

朝時娘との間に生まれた2人の男子も嫡子の座を追われ、彼らは斯波氏・渋川氏を名乗ることになります。

この二人には、足利泰氏室の姪にあたる北条時定娘たちが嫁いでいますが、義理の母親にあたる時氏娘が手をまわして成立した婚儀だったのかもしれません。

時氏の娘は泰氏との間に、足利氏の当主となる息子・頼氏を産みました。この頼氏の子孫から、室町幕府初代将軍・足利尊氏が生まれてきます。

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この夫婦の間に子供は生まれなかったようで、子孫は伝わっていません。時定の出家後に、この家系は途絶えたようですね。

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北条時氏の娘:北条時隆室

諸説ありますが、北条時氏の娘の一人は、北条時隆(北条時房の孫【次男・時村の息子】)の正室になったと伝わっています。

彼女の子かどうかは分かりませんが、時隆の息子・宗房は時村の家系を受け継ぎました。

この家系は時村以降、和歌などの文化に素養が深い一族であったようで、北条時隆や時隆の子孫たちは歌人として名前を残しています。

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