藤原道長の妻(正室・側室)たち

古代史(日本史)

摂関政治の全盛期を築いたのは、藤原北家の御堂関白・藤原道長でした。

その栄華に満ちた生涯から、一説には「光源氏」のモデルの一人ともなったとも言われる藤原道長ですが、彼の立身出世には妻たちの存在も大きく影響していたようです。

ここでは、藤原道長の妻(正室・側室)について紹介していきます。

藤原道長の正室(継室?):源倫子

この殿は北の政所二所おはします。この宮++の御母うへと申は。土御門左大臣雅信のおとゞの御むすめにおはします。

其雅信のおとゞは亭子のみかどの御子。一品式部卿宮敦実のみこの御子左大臣時平のおとゞの御むすめのはらにむませ給へりし御子なり。其まさのぶのおとゞのむすめを。今の入道殿下の北政所と申なり。その御はらに女君四ところ。おとこきみ二ところぞおはします。

引用:『大鏡』

宇多源氏の左大臣・源雅信と、正室の藤原穆子(醍醐天皇の外戚である右大臣・藤原定方の孫娘)との間に生まれました。

父・雅信は当初、倫子を天皇の妻にするつもりでした。しかし、年齢的に釣り合いの取れていた花山天皇は道長の父・兼家などの策謀によって出家・退位してしまいます。

すでに20歳に差し掛かろうとしていた倫子を、父は当時幼児に過ぎなかった一条天皇に入内させようとしましたが、そんな時に、道長が彼女に求婚します。

年齢の違いすぎる結婚を危惧していた母の穆子のすすめもあり、倫子は道長と結婚することとなりました。

后がねとして育てた娘を臣下にすぎない道長に嫁がせることを、父・雅信は相当渋ったようですが、最終的には折れたようです。

永延元年(987年)に、24歳で2歳年下の道長と結婚した倫子は、翌年から立て続けに子供を産みます。

およそ20年の間に、倫子は2男4女を産みます。特に4人もの女子を道長にもたらした効果は大きく、長女彰子をはじめ、彼女の4人の女子たちは全員天皇に嫁ぎました。

長女彰子は一条天皇の中宮に、次女妍子は一条天皇の次の三条天皇の中宮に、四女(倫子の三女)威子は甥(彰子の子)後一条天皇の中宮に、そして末娘の嬉子もまた、甥(彰子の子)後朱雀天皇の東宮時代の妻となっています。

また彼女の産んだ二人の男子(頼通・教通)は、いずれも摂関の地位を引き継ぐことになります。長男・宇治関白頼通の子孫は、のちの五摂家を形成することとなりました。

天皇の外祖母として栄華を極めた彼女は母穆子、また娘彰子同様に長生きし、天喜元年(1053)に90歳で亡くなります。

藤原道長の正室?→側室:源明子

又高松殿のうへと申も。これ源氏におはします。延喜御子高明親王左大臣左大將までならせ給へりしに。おもはざるほかの事に[よ]り。大臣とられて。太宰權帥にならせ給ひて。ながされ給ひし。いとど心うかりし。御むすめにおはします。

それをかの殿つくしにおはしましけるとし。この姫君。まだいとおさなくておはしけるを。御をぢの十五の宮と申たるも。おなじ延喜の御子におはします。女子もおはせざりけれは。この君をとりたてまつりて。やしなひかしづきたてまつりて。もちゐたまへるに。西宮殿も十五の宮もかくれさせ給ひにし後に。

故女院の后におはしましゝおり。この姫君をむかへとりたてまつらせ給ひて。東三条殿の東對に帳をたてゝかつしろをひき。わが御しつらひにいさゝかおとさせ給はす。しすへきこえさせ。女房さふらひけいしくもひとまてへちにあかちあてさせ給ひて。ひめ宮などのおはしまさましことくに。かきりなくおもひかしつききこえさせ給ひしかば。

御せうとの殿はら我も++とけさうし奉り給ひけれど。后かしこくせいし申させ給ひて。いまの入道殿をぞゆるしきこえさせ給ひければ。かよひ奉らせ給ひし程に。女君二所男君四所おはしますぞかし。

引用:『大鏡』

実は道長が、倫子との結婚前に結婚していたかも?と言われているのが、道長の側室である源明子です。

ただ側室と言っても、『大鏡』などでは倫子と並んで「北の方」とも言われていたりするので、ほぼほぼ正室格の側室だったようですね。

彼女は醍醐天皇皇子で臣籍降下した源高明と、道長の叔母にあたる愛宮(藤原師輔の娘)との間に生まれた娘でした。

本来ならば倫子よりも血筋の良い女性なのですが、父・高明が安和の変で失脚していたこともあり、なかなか大変な幼少期を送ることになります。

父の没落後、彼女は叔父・盛明親王の養女となりますが、この叔父も早いうちに亡くなってしまいます。そんな時に手を差し伸べたのが道長の姉で一条天皇の母である東三条院でした。

東三条院は、摂関家の陰謀に巻き込まれて没落した人々を積極的に庇護したようです。東三条院は明子を大切に手元で育て、そして可愛がっていた弟の道長と結婚させました。

東三条院は後年、道長の長兄・道隆の死後に、道隆の子・伊周ではなく道長を内覧(摂関に准ずる地位)につけるように取り計らったことでも有名です。

もしかしたら自分の娘のように思っていた明子の夫であったことも、そのひいきの一因だったのかもしれませんね。

道長と明子の間には4男2女が生まれます。しかし道長の正室・倫子所生の子たちと比べると、明子所生の子たちは明らかに昇進の速度や結婚相手の格が落ちるような状態でした。

しかし明子は特にそのことに対して文句を言うこともなく、道長を支え続けました。

子供たちもその姿を見ていたのか、明子の長男・頼宗らは頼通と協調することで徐々に昇進を果たしてきます。

道長の娘の中で唯一臣下に嫁いだ尊子(源師房室)も、多くの子を産み、摂関家や天皇家と血縁関係を築いていきます。

しかし、すべての子供たちが頼通らと強調したわけでもありません。

明子の三男・藤原能信は倫子所生の子たちと差が付けられる待遇に不満を持っており、頼通らと敵対的でした。

能信は摂関家の血が薄い(母親が藤原氏ではなく皇女)後三条天皇即位に尽力し、摂関家の権力を弱体化させるきっかけとなっています。

藤原道長の側室:源重光の娘

藤原道長の子供たちの多くは、正室・倫子もしくは倫子に並び立つほど高貴な生まれの側室・明子のどちらかを母親にしています。

しかし唯一、彼女たち以外で道長の子を産んだ女性がいます。

その女性が、致仕大納言・源重光の娘です。彼女は道長の妻・源明子の従兄弟の子にあたる女性でした。

側室の子、さらには道長が年を取ってから生まれた子ということもあってか、源重光の娘が産んだ子は公卿となることはなく、出家して僧侶としてその生涯を終えました。

彼の名前は長信、東寺長者、仁和寺別当を歴任するなど、僧侶ながらに摂関家の子息にふさわしい昇進を遂げました。

ちなみに、長信の師である僧侶・延尋は道長の側室とも言われている源簾子の兄弟だったりします。意外なところで側室同士のネットワークが築かれていた可能性もありそうですね。

藤原道長の側室:藤原儼子

太政大臣・藤原為光とその継室・藤原伊尹の娘との間に生まれた四女です。道長からすると従姉妹(藤原為光は道長の父・兼家の弟)にあたる女性です。

もともとは異母姉・忯子の夫であった花山法皇の愛人でした。

花山法皇が彼女に会いに行っていたところ、儼子の姉の恋人であった藤原伊周が恋敵と勘違いして弓を射かけ、それが大問題となって失脚に追い込まれたのは有名な話ですね。

こんないざこざもあったためか、花山法皇の心は他の女性に移ってしまいます。太政大臣の娘と言え、すでに父を失って久しい儼子は、花山法皇という後ろ盾を失ってしまいました。

生活の糧をえるためでしょうか、彼女は三条天皇中宮・妍子のもとに女房として出仕するようになりました。

その後、彼女は妍子の父・道長と懇ろになります。そして長和五年(1016)に道長の子を産みますが、子供は死産で生まれてきたうえに、彼女自身も産褥死することとなりました。

生年は分かりませんが、花山法皇と関係していたのが長徳二年(996年)頃であること、妹の穠子が979年ごろの生まれであることなどを考えると、享年は30代後半くらいであったかと思われます。

藤原道長の側室:藤原穠子

藤原儼子の同母妹で、姉同様に道長の側室となりました。

彼女は若い頃に中級貴族の左馬権頭・源兼資の妻となっています。

太政大臣の娘の結婚相手としては少し身分が低いような気もしますし、どうも20歳くらい年齢が違うようなのですが……結構な大恋愛でもあったのでしょうか。それとも、父・為光の死もあり、零落気味だったのでしょうか。

しかし兼資は彼女が23歳のころに亡くなってしまい、彼女は身を立てるために女房としての道を決断せざるを得ませんでした。穠子は姉・儼子同様に三条天皇中宮・妍子の女房になります。

そして姉・儼子と同時期なのか、それとも儼子の死後のことかはわかりませんが、穠子もまた道長の側室となります。しかし、二人の関係はさほど長いものではありませんでした。

おそらくではありますが、道長が出家した寛仁三年(1019)頃には、二人の関係は終わりを迎えていたかと思われます。姉の儼子の死後およそ3年後のことでした。

道長と別れたと思われる穠子は、その後主人・妍子の娘である禎子内親王に仕えるようになっていますが、道長に先立って万寿二年(1025)に亡くなっています。

藤原道長の側室?:源簾子(上東門院門院女房大納言)

宇多源氏の参議・源扶義の娘(もしくは源扶義の兄弟・時通の娘で源扶義の養女)で、道長正室・倫子の姪にあたる女性です。

もともとは、醍醐源氏の受領・源長経の妻の一人であり、彼との間に娘を一人(母と同じく上東門院彰子に仕え、小兵衛と呼ばれた)を儲けています。

その後、彼女は上臈女房として従姉妹にあたる彰子のもとに出仕するようになりました。

女房としてはかなり有能だったようで、寛弘八年(1011)には、彰子の息子である東宮・敦成親王(後一条天皇)の上級女官である宣旨にもなっています。

さて、彼女はいつのころからか道長の側室となったと言われています。娘・彰子の側近の一人ですから、いろいろと後宮でのことを差配しているうちに親しくなったのかもしれませんね。

ただ実際、二人がどこまで深い関係だったのかはよく分からず……。側室というよりは、お互いアバンチュールの相手だったのかもしれませんね。

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藤原道長の側室?:紫式部

『紫式部日記』では道長に言い寄られた!というような文章も残っています。

ただ道長の女性遍歴を見ると割と身分の高い女性が好き?な印象を受けるので実際のところ受領階級出身の紫式部のことを本気で思っていたのか?というような印象もあります。

道長の側室たちの父親は右大臣、太政大臣、大納言……とそうそうたる面子ですからね。

とはいえどどこか怪しいイメージは付きまとっています。

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