檜皮姫 北条政子になれなかった得宗家の娘

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

鎌倉幕府五代目の将軍・藤原(九条)頼嗣は、若くして将軍位を追われ、追いやられるようにして戻ってきた京都で病にかかり、早世します。

短く、悲しい一生を送った藤原頼嗣は、生前一人の女性と結婚していました。

彼女の名前は檜皮姫、北条泰時の孫娘で、時の執権・北条経時の妹でした。

北条得宗家に翻弄された女性・檜皮姫についてこの記事では紹介していきます。

「檜皮姫」の名前の読み方・意味

「檜皮姫」の名前の読み方については、はっきりとした記録は残っていません。しかし、慣例的に読むならば、「ひわだ」でしょうか。

檜皮、とは文字通り「ヒノキの皮」を示します。このヒノキの皮のような渋みのある、黄みがかった暗い茶色の事を「檜皮色」といい、鎌倉時代の武士の狩衣の重ねなどの色によく使われていたといいます。

そう考えると、檜皮姫、という名前はとても武士の姫君らしい名前ですね。

檜皮姫の出自~父は北条時氏、母は松下禅尼か?~

檜皮姫は、執権・北条泰時の長男・六波羅探題北方の北条時氏の娘として生まれました。

生まれた年(寛喜二年・1230)に父・時氏は亡くなってます。檜皮姫は父親の顔を知らずに育ちました。

檜皮姫の母親については、時氏の正室である安達景盛の娘・松下禅尼ではないか?と言われています。

松下禅尼は檜皮姫の死後、実母と檜皮姫の冥福を祈って供養のため碑などを立てたそうです。

それほど愛情を持っているならば、檜皮姫は松下禅尼の娘である可能性が高そうですよね。

ただ、松下禅尼は当初は北条時氏の上洛についていって在京していましたが、途中で鎌倉に戻っていたようです。

死の直前まで京にいた(死去時は鎌倉に下向していた)時氏の娘であるならば、彼女の母親は、時氏の京での妾(側室)である可能性もそれなりに高いように思われます。

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檜皮姫の生涯~『吾妻鏡』より~

今夜武州御妹、〈號桧皮姫公年十六、〉爲將軍家御臺所、參御給近江四郎左衛門尉氏信、小野澤二郎時仲、尾藤太景氏、下河邊左衛門次郎宗光等、扈從是非嚴重之儀、以密儀先御參追可有露顯式〈云云〉今日天地相去日也自雖有先例、殆不甘心之由、雖有傾申之輩、不能御許容、被遂之〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

檜皮姫、の名前や存在が初めて記録に現れるのは、寛元三年(1245)七月二十六日のことです。

執権・北条経時の妹である檜皮姫はこの日、まだ8歳に過ぎない幼い将軍・藤原頼嗣に嫁ぎました。

この婚儀がいつ頃決まったことかは分かりませんが、このおよそ3ヶ月前に、「将軍頼嗣の結婚のため」将軍御所を改築しており、かなり急ピッチで決まったことではないでしょうか。

この3年前の仁治三年に得宗家の権威を確立させた執権・北条泰時が亡くなっていること、また泰時の異母弟・北条朝時がこの年の春に亡くなっていたなどもあり、北条一族内では世代交代が急速に進んでいました。

檜皮姫の父・北条時氏は本来ならば泰時の後を継いで執権となるべき人物でしたが早世しており、跡を継いだのはまだ20歳にもなっていない檜皮姫の兄・経時でした。

しかし、経時は体があまり強くなかったようで、たびたび病臥していたことが記録に残っています。

若く、祖父に比べるとどうしても頼りなさげな経時に対して、どこかなめてかかるような風潮もあったのかもしれません。

北条得宗家の権威を揺るがせないためにも、将軍とのつながりを強固にすることが求められたのでしょう。

時の将軍・頼経にはすでに妻子がいましたから、狙うべきはその息子でした。

成長してしまった将軍を再びお飾りにするためにも、幼い子を将軍にするのはある意味必然と言えました。

執権・北条経時は、寛元二年(1244)に、将軍頼経を退位させ、その子息である頼嗣を将軍位につけ、そしてその妻として自身の妹・檜皮姫を配したのです。

この時、檜皮姫は16歳、将軍頼嗣は7歳だったと伝わります。夫婦と言っても、実際は姉弟のように生活していたことでしょう。

天晴。爲御臺所御祈。於御所被行千度御秡。晴茂。宣賢。晴貞。廣資。泰房。晴憲。晴成。晴長。以安等奉仕之云々。

引用:『吾妻鏡』

将軍家に嫁いだ檜皮姫ですが、兄・経時同様、あまり丈夫な体ではなかったようです。

もしくは、嫁いだ後、幼い将軍の御台所としての慣れない生活が響いたのかもしれません。(将軍頼嗣もたびたび病気の記事が見受けられるので、夫婦そろって病弱だったのかもしれませんね。)

寛元四年(1246)の2月ごろにはお灸をしたり、体調回復を祈願しての祈祷なども執り行われました。

この寛元四年(1246)には、檜皮姫の輿入れを推し進めた兄・経時が亡くなり、次兄の時頼が新たな執権となります。

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檜皮姫の死と宝治合戦

頼嗣室平氏 檜皮姫 疾ム、尋デ、幕府、陰陽師ヲシテ、千度祓ヲ行ヒ、其ノ平癒ヲ祈ラシム、

『大日本史料』より

御臺所御不例之間。大納言法印隆辨祗候。修炎魔天供。轉讀大般若經云云。…(中略)…彼御不例事。爲御邪氣云云。左親衛殊歎息云云。

引用:『吾妻鏡』

嫁いだ後もたびたび病気の記録が残されている檜皮姫ですが、宝治元年の春頃から、檜皮姫はさらに体調を崩し始めたようです。

当初は「邪気」つまり「風邪」であったようですが、長患いは続き、彼女は床から起き上がれなくなってしまいました。

兄にあたる北条時頼は非常に心配したと伝わります。そして、彼女の病の平癒を祈って、僧侶たちによって様々な祈祷が執り行われました。

御臺所遷化〔年十八〕。日來御不例之間。祈療雖被竭其功。終及御大事也。是故修理亮時氏之息女。左親衛乙妹也。左親衛渡御若狹前司舘。依御輕服也。

引用:『吾妻鏡』

しかし、檜皮姫は兄や幕府の人々の祈祷もむなしく、亡くなってしまいます。

時に18歳、夫にあたる頼嗣はまだ9歳の少年でした。当然ながら二人の間に子供はいませんでした。

御臺所奉送于佐々目谷武州禪室經時。墳墓之傍也。人々着素服供奉。

引用:『吾妻鏡』

彼女は将軍御台所というよりは、北条家の人間として、亡くなった兄・北条経時の墓のそばに葬られました。

ちなみに、この葬列には三浦重村ら三浦一族のものも列席していましたが、この1ヶ月後の宝治合戦により三浦本家の男子はことごとく死に絶えることとなります。

三浦重村もまた、宝治合戦で兄・泰村ともども果てることになるのですが、この葬列に参列していた時に、彼はそのことを想像していたのでしょうか。

また、執権北条時頼からすると将軍家との橋渡し役だった妹を失ってしまったことは非常な痛手でした。

彼はこののち、かつて義弟であった将軍・頼嗣を京へ追放することとなるのですが、もしも檜皮姫が生きていたのならそのようなことにはならなかったかもしれません。

また、檜皮姫を失った余裕のなさが、張り詰めるような緊張関係にあった三浦氏との関係にとどめを刺した……というのは、さすがに言いすぎでしょうか。

檜皮姫の喪に服すため、執権北条時頼は三浦泰村の館に滞在したこと、その際の異常な雰囲気については、『吾妻鏡』にも描写されています。

檜皮姫の死と、宝治合戦は切り離して考えない方が良いようにも思われます。

檜皮姫の夫・藤原頼嗣のその後

檜皮姫の死によって運命を大いに歪められたのは、将軍頼嗣でしょう。妻を失った少年は、わずか5年足らずで将軍位を追われ、京へ追放されます。

新たに将軍についたのは、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王でした。鎌倉幕府は将軍実朝以来の悲願である、宮将軍(親王将軍)を迎えることに成功します。

宮将軍の東下りの華やぎの中、ひっそりと頼嗣は見たことのない父の故郷・京へと戻ります。頼嗣の祖父・道家もこの時に失脚し、そのショック冷めやらず死去しています。

頼嗣の京の生活がどのようなものだったのかはよく分かりません。ただ一応、前将軍として「三位中将」の位階を与えられていたようです。

三位中将頼嗣卿薨 依赤疱瘡也

引用:『百錬抄』

若くして隠居状態に追いやられていた前将軍・頼嗣は父・頼経の後を追うようにして、わずか18歳で疱瘡で死去しました。

この年の七月には京で、八月には鎌倉で疱瘡が流行っていたため、彼も感染したのでしょう。

同時期に、時の将軍・宗尊親王も疱瘡にかかっていましたが、彼は死ぬことなく回復しています。

しかし、鳴り物入りで鎌倉に迎えられた宗尊親王もまた、成長すると京へ送り返されることになります。

檜皮姫と竹御所の関係

竹御所姫君於相州御亭。有御除服之儀。

引用:『吾妻鏡』

文暦二年(1235)七月の『吾妻鏡』に「竹御所姫君」という言葉が出てきます。

この言葉は、この前年になくなった竹御所その人を指すとする解釈もありますが、竹御所には養女がいて、その養女をさして「姫君」といっているのだとする解釈も存在します。

もしも竹御所の養女がいたのだとしたら、年齢的に檜皮姫である可能性も否定できません。北条得宗家の姫君で、竹御所本人からすれば遠縁(はとこの娘)にも当たります。

もしもこの養女が檜皮姫だったとしたならば、竹御所が後継者を産むことなく亡くなった後、竹御所の意思を継ぐ者として、いずれ生まれてくるであろう将軍後継者に檜皮姫が嫁ぐことはすでに決まっていたのかもしれませんね。

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