本当は怖い絵画 「ラス・メニーナス 女官たち」 ディエゴ・ベラスケス

世界史

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

パブロ・ピカソ、ゴヤなどスペインには多くの画家がいます。

しかし、スペイン国内でもっとも王宮内の地位があったといえる画家と言えば、ディエゴ・ベラスケスでしょう。

スペインハプスブルク家のフェリペ4世の宮廷画家でありながら、官僚としても活躍したベラスケスの代表作が、「ラス・メニーナス(女官たち)」という絵です。

しかしこの絵、謎があったり、モデルにまつわる怖い話もあったり……。

ラス・メニーナスの謎やモデルについてまとめました。

(過去にネイバーまとめで「mimimi8」という別名義でまとめていたものをリライトした記事になります。)

ラス・メニーナス画家・ベラスケスにまつわる怖い話

ベラスケスはもともとセビーリャの画工でした。師匠の下で絵を学び独立したベラスケスは、1623年24歳の時に首都・マドリードへ旅行に行きます。

ただ旅行と言っても、おそらく自身の絵の売り込みもあったのでしょう。それは功を奏し、彼は当時のスペインの首席大臣・オリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンの紹介で、国王フェリペ4世の絵を描くという名誉を得ます。

ベラスケスの描いた絵は、フェリペ4世の関心を勝ち取りました。彼は宮廷画家として、以後30年以上、フェリペ4世の家族たちを描き続けることになります。

しかし、スペイン国王フェリペ4世、そして彼の家族たちはあまり容姿に優れた人物だったとは言えませんでした。

フェリペ4世自身は、ハプスブルク家の特徴である下唇の突出著しく、お世辞にも美男とは言えません。

そして彼の姪(!)でもあるフェリペ4世王妃(後妻)であるマリアナの肖像画も残っていますが、度重なる出産もあってか、まだ若い少女のような年齢でありながら、仏頂面であったりします。

宮廷画家という名誉を得ながらも、美しいとは言えない人々の絵ばかり描かされる……というのはある意味嬉しくはないかもしれませんね。

さらに、ベラスケスには宮廷の官僚という仕事もありました。

彼は王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長という重職についたうえ、さらにフェリペ4世の長女(前妻イサベル王妃との子)であったマリア・テレサ王女(フランス名:マリー・テレーズ・ドートリッシュ)とフランス国王類14世の婚儀の準備までもまかされます。

ベラスケスの死因は、画家と官僚の両立による過労死でした。

1660年、61歳の時のことです。

ちなみにベラスケスとラス・メニーナス(女官たち)にまつわる謎はもう一つあります。

この絵の中のベラスケスの胸には、赤い十字が描かれています。

この十字は、サンチャゴ騎士団の紋章です。サンチャゴ騎士団に入ることは当時のスペイン人たちにおいて最大級の名誉でした。

ベラスケスももちろん騎士団入団を希望しますが、彼が入団を許されたのは死の前年、1659年のことです。

しかし、ラス・メニーナス(女官たち)の完成は1656年のことで、すでにラス・メニーナス(女官たち)はベラスケスの手を離れ、王宮に飾られていたようなのです。

となると、誰かが後々ラス・メニーナス(女官たち)に手を加え、赤い十字を描き足したことになります。

ベラスケス本人はフランスとスペインを行き来するなど相当忙しかったはずですが、彼が描き足したのでしょうか?それともベラスケス死後に、別の人が描き足したのでしょうか。

この謎はいまだに説かれていません。

ラス・メニーナス(女官たち)の「王女」にまつわる怖い話

ラス・メニーナス(女官たち)の主役は中央の幼い少女、彼女はフェリペ4世と後妻マリアナの間に生まれたフェリペ4世の次女、マルガリータ・テレサ王女です。

彼女は、ハプスブルク家の近親結婚で生まれた王女でした。

まず、父・フェリペ4世と母・マリアナ王妃は伯父と姪の関係にあります。

さらにそれだけでなく、マルガリータ・テレサの曾祖父と曾祖母の世代では、2組も伯父(叔父)と姪との結婚がなされています。

そしてマルガリータ・テレサ王女自身も近親結婚の運命に巻き込まれることとなります。

まず彼女の幼少期、異母兄(フェリペ4世と愛人マリア・カルデロンの子)であるフアン・ホセ・デ・アウストリアが、王位継承権を得るため(当時のスペインでは愛人の子に王位継承権は認められていませんでした)に、異母妹であるマルガリータ・テレサとの結婚を望みます。

しかし、この結婚はさすがにフェリペ4世も退けます。

最終的に決まった彼女の婚約者、神聖ローマ皇帝・レオポルト1世は、母マリアナの11歳下の弟、つまり叔父でした。

異母兄(二親等)よりは血は遠くなりますが、それでも叔父(三親等)……。

マルガリータ・テレサは、15歳でオーストリア宮廷に輿入れし、神聖ローマ皇后となります。

レオポルト1世は姪にあたる若い王妃を歓迎し、祝賀のイベントを数多く計画し実行しました。

レオポルト1世は彼女のことをマルガリータのドイツ語マルガレーテにちなみ、愛称で「グレートル(グレーテル)」と呼んだそうです。

それに対し、マルガリータは「叔父上さま」(Onkel)と夫のことを呼んだと言います。

二人の仲は非常によかったそうですが、近すぎる血ゆえか、二人の結婚生活には次第に暗雲が立ち込めてきます。

マルガリータ・テレサ王女は、皇后として6人の子を産みますが、多くの子たちは流産もしくは早世します。

唯一成長したのは、長女のマリア・アントニアのみでした。

マルガリータ・テレサ王女は子どもたちの死に気を病み、ウィーンからユダヤ人を追放するなどしましたが、それでも彼女の子供たちは無事に生まれることはできませんでした。

さらに、マルガリータ・テレサ王女がスペインから連れてきた随行員たちはオーストリア宮廷からうとまれます。スペイン人たちに対する悪感情は、そのまま彼らを引き連れてきた皇后、マルガリータ・テレサ王女へと向かいました。

結婚から6年後、マルガリータ・テレサ王女は6人目の子を出産します。しかし彼女の体は度重なる流産と出産で、すでに弱り切っていました。

マルガリータ・テレサ王女の命が長くないと悟ったオーストリア宮廷の廷臣たちは、まだマルガリータ・テレサ王女が生きているにも関わらず、レオポルト1世の再婚相手探しを始めます。

マルガリータ・テレサ王女は失意の中、21歳で亡くなりました。

マルガリータ・テレサ王女が残した唯一の娘である神聖ローマ皇女マリア・アントニアは、成長してバイエルン選帝侯マクシミリアン2世に嫁ぎます。

マルガリータ・テレサ王女の弟・カルロス2世は知的障害などもあったと言われるほどの病弱・虚弱ぶりで知られており、スペイン国王の姪であるマリア・アントニアの子はスペイン王の後継者となる可能性を秘めていました。

しかし、マリア・アントニアは3人の子を産んだ後早世、さらにマリア・アントニアの3人の子たちも幼くして亡くなってしまいます。

ここに、マルガリータ・テレサ王女、ひいてはスペイン王妃マリアナの血筋は途絶えることとなります。

手前の犬に関わる怖い話

ラス・メニーナス(女官たち)の前面に描かれているマスティフ犬は「モーセ」という名前が付けられていたそうです。

この名前は、ラス・メニーナス(女官たち)に描かれている男性の小人、ニコラ・ペルトサート(ベルトゥサトとも)がいたずらで桶に沈めたにも関わらず生き延びたことからつけられた名前だとか。

なかなかブラックユーモアがきいたネーミングですね。

小人にまつわる怖い話し

ラス・メニーナス(女官たち)にはもちろん女官が描かれています。

王女に仕える2人の女官、イサベルとマリア・アウグスティナだけでなく、他にも王女の目付け役なども描かれています。

しかし、ある意味彼女たち以上に目を引くのが小人たちです。

当時、スペイン宮廷では小人などのいわゆる「異形」の人たちを慰み者(道化)として多く集めています。

王女の右側の2人の小人のうち、女性の名前はマリア・バルボラ。

マリア・バルボラは「マリボルバラ」という通称でも知られており、王妃マリアナのお気に入りの侍女でもありました。

小人という異端視されそうな見た目の女性でしたが、性格は苛烈そのもので、人に侮辱されるようなことがあれば決して相手を許さなかったといいます。ベラスケス自身も彼女を大層重んじたと伝わります。

もう一人の男性、ニコラ・ペルトサート(ベルトゥサト)はイタリア出身の小人だと伝わります。

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