式子内親王の「玉の緒よ」恋の相手は藤原定家だったのか?式子内親王の生涯

女性史

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

百人一首の中でもかなり人気の高い和歌であると言われるのが、百人一首第八十九番、式子内親王作の和歌です。

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする
『新古今和歌集』恋一・1034

私の命よ、絶えるのならば今日のうちにでも絶えてしまえ、命ながら得てしまえばこの恋心を隠そうという意思が弱ってしまう―

式子内親王は平安末期、「大天狗」と呼ばれた後白河院の第三皇女として生まれました。皇女という高貴な身分、生涯独身であったという事実などからか、彼女には恋のうわさが付きまといます。実際のところ、どのようであったのでしょうか。気になったので調べてみました。

式子内親王の前半生

式子内親王は即位前で皇位継承などまったく考えられていなかった皇子・雅仁親王と雅仁親王の従姉妹で雅仁親王の側室のような立場にあった藤原成子という女性の間に生まれました。

同母兄弟姉妹は多く、第一皇女亮子内親王(殷富門院)、第二皇女好子内親王、第四皇女休子内親王、第二皇子守覚法親王、第三皇子以仁王らが彼女の同母兄弟姉妹でした。

彼女が10代に差し掛かる頃に、父雅仁親王が、美福門院らの政治的駆け引きの結果天皇になることが決定しました。そして同時に、彼女は賀茂神社に仕える巫女姫・賀茂斎院の任務につきます。

約10年ほど京の都からほど近い賀茂神社にて賀茂斎院として奉仕しましたが、病気になり彼女は賀茂斎院の座を退きます。このとき彼女は21歳。そこから彼女は長い間、安住の地を得られず、母の実家に住んだり、父と同居したり、叔母の八条院のもとに身を寄せたり……と家を転々とすることになります。

皇女と言えど、母親があまり身分が高くなかったこともあって後ろ盾が弱かったことも影響したのでしょうね。

式子内親王は結婚できない皇女で生涯独身

賀茂斎院を退いた時、式子内親王は21歳でした。現代ならば結婚などを考えてもおかしくはない年齢ですが、この当時、皇女というのはほとんど結婚できない身分でありました。多くの皇女は独身のまま生活していたのです。

皇女であっただけ、まだましであったかもしれません。皇位継承者以外の皇子たちは皆寺に入れられ、成長したらほぼ全員僧侶になっていたのですから。

彼女の身近で結婚していたのは、二条天皇と結婚した叔母の高松院姝子内親王くらいです。(未婚の皇女でひそかに恋人を作っていた……というパターンはあったかもしれませんが。)式子の姉妹たちも、全員独身です。ですから、おそらく式子内親王自身は自分が結婚できないこと、独身であることにはある意味あきらめのような感情も持っていたのではないでしょうか?

仏を信じない皇女

式子内親王という人は、どことなく物静かな皇女、というイメージを持つように思われます。それは彼女の詠んだ歌がどこかあきらめや閉じた感じを印象付けるからでしょうか。

しかし彼女はなかなか独特な感性をもっていたようです。

式子内親王は後年出家して尼僧となっていますが、それでも仏事にあまり関心を持たなかったそうです。

平安末期は仏教でいうところの「末法」の世だと信じられ、いわゆる鎌倉仏教が生まれるなど仏教に対する関心の強い時代でした。当時は病気やら何かあると僧侶を呼んで加持祈祷をしたそうですが、彼女は加持祈祷を好まなかったといいます。

それは彼女が10代を「賀茂斎院」と呼ばれる賀茂神社に奉仕する巫女姫として過ごしたことに依るのでしょうか。

それとも―仏に祈ったにもかかわらず、同母弟・以仁王が平家との争いの結果、無残にも命を落としたことが、彼女に仏に対する不信感を与えたのでしょうか。

それか、後述しますが鎌倉仏教とのかかわりでしょうか。理由は分かりません。

迫害される皇女

仏事にあまり関心を持たない皇女の姿は奇異に映ったのでしょうか。彼女は何もしていないのにも関わらず、いろいろなうわさをたてられ、迫害されます。

まず最初のうわさは、なんと姪、以仁王の娘三条姫宮にかかわる物でした。

伯母の式子内親王が八条院と、三条姫宮を呪詛していると―

周囲の人々の疑いの目に耐えられず、彼女は八条院のもとを退去すると、父の所有する白河押小路殿に移り住み、そのまま出家します。しかしこの時に父の同意をとっていませんでした。

そのことが響いたのでしょうか、父が崩御した後、式子内親王の住んでいた白川押小路殿は父の遺言で姉の殷富門院に譲られていたため、さらに引っ越しを余儀なくされました。

彼女には「大炊御門殿」という屋敷が遺言で残されていましたが、実はこの屋敷には当時の一大権力者・九条兼実が住んでいました。九条兼実からすれば、皇女と言えど無視できる存在でした。式子内親王はやむなく、後見役であった貴族・吉田経房の屋敷に間借りすることになります。

吉田経房の屋敷に住んでいる間にも、「後白河院の例の託宣」を騙ったとして流刑に処された橘兼仲夫婦にあやうく連座しかけて都から追放されそうになります。式子内親王は九条兼実からにらまれていましたから、その影響もあったのかもしれませんね。

彼女がようやく安寧を得られたのは、九条兼実失脚後のことでした。ようやく押小路殿に移り住むことができた彼女は、のびのびと羽を伸ばしたことでしょう。

この頃、和歌に関心を寄せていた甥・後鳥羽天皇は式子内親王を尊敬していたようで、いろいろと便宜を図ったようです。後鳥羽天皇は第二皇子の守成親王を式子内親王の猶子とすることも考えていました。もしも実現していたら、式子内親王は姉の殷富門院のように女院号を与えられていたでしょう。

しかし、それは実現しませんでした。彼女は53歳で亡くなります。一説には、乳がんだったと言われています。

式子内親王の恋の相手は藤原定家か?

藤原定家は百人一首の撰者にして、新古今和歌集含めた様々な勅撰和歌集の撰者にして、和歌の世界における空前絶後の偉人です。また、彼は家族とともに源氏物語の書写に励んだことでも有名で、もしも彼がいなかったら源氏物語は今に伝わっていなかったかもしれませんね。

式子内親王はもともと藤原俊成に和歌を師事していたのですが、その縁で俊成の息子の定家とも関りがありました。

藤原定家は式子内親王の13歳年下で、和歌の縁が高じて式子内親王の家司(かなり位の高い執事のようなもの)のような立場にありました。また定家の姉の1人は式子内親王の女房になっていました。

定家自身は実は九条兼実含め九条家にも仕えていたのですが、九条兼実と良好な関係でなかった式子内親王にも近しい立場であったというのはちょっと面白いですよね。

式子内親王と藤原定家の出会いは定家19歳の時、その時の式子内親王の様子を定家は自身の日記『明月記』に書き留めています。式子内親王はうっとりするような良い香りのする香をたきしめて、御簾の中に現れました。式子内親王は時に、筝を弾いて見せることもあったそうです。

定家の書いた明月記には、式子内親王のことがたびたび描かれました。特に彼女の死の前には、定家は彼女の病状を細かく記載していました。

一方で、彼は彼女の死の当日、そして葬儀のことは一切書きませんでした。彼が式子に再び触れたのは、彼女の一周忌の仏事の時、その時にようやく彼は彼女の死をその日記の中に記したのです。

式子内親王と藤原定家の関係は、確かに親しかったのでしょう。しかし年齢差や身分差を考えると、恋心が芽生えたのかどうかは微妙ですよね。

定家自身は正妻だけでなく、下女にも手を付けて20人超の子を産ませるなど、極めて俗物的な一面もあります。ますます皇女の悲恋の相手としては……なんかこう……ちょっと微妙ですよね。

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする
『新古今和歌集』恋一・1034

この和歌に関しては俗説があります。

藤原定家の父・俊成は息子の定家が式子内親王と恋仲であるとのうわさを聞いていた。信じてはいなかったが、ある日息子の定家の部屋で式子内親王の筆跡で書かれた「玉の緒よ……」の和歌を見つけてしまう。うわさは本当だったのか、と驚いたが同時に、2人の恋は極めて真剣なものなのだと理解し、定家に何も言わなかった。

そうだとすると、この和歌は定家と式子内親王の文のやり取りで生まれたことになりますが……事実は違います。

この和歌は、もともと式子内親王の百首歌、つまり百首詠んだ歌の中にあったもので、「忍ぶ恋を題材にして詠まれた歌」であるため、実体験ではないのです。式子内親王が隠さなければならない恋をしている人になり切って詠んだ歌なのです。

さて、式子内親王は、定家に対する思いのようなものを見せているようには思えません。2人の間にも恋のようなものがあったとも思われません。

しかし式子の死後、定家は実に不可解なことを親戚に述べているのです。その親戚は正妻の甥、名前は西園寺実氏と言いました。彼はのちに九条家をもしのぐ、鎌倉中期の朝廷における一大権力者となります。そして西園寺実氏は自身の孫、後深草天皇にもその話をしたのです。

それはこのような話でした。

生きてよも 明日まで人も つらからじ この夕暮を とはばとへかし

―よもや明日まで私は生きていられるでしょうか。だからあなたもつれないことはなさらないで、もしも私に会いたいのなら今日の夕暮れに来てくださいな

この和歌を、式子内親王から贈られたのだと。

また定家は若いころに、『松浦宮物語』なる物語を記したと言われています。その物語の中で主人公の青年は中国の公主と恋愛関係になりますが、その公主は筝の琴を弾き、また素晴らしい香りのする皇女なのです。まるで、明月記に記された式子内親王のような。

定家のどこか思わせぶりな感じは意図したものなのか、そうでないのかはよく分かりません。ただ、素晴らしい和歌を詠む皇女への強い憧れはあったのでしょう。後世に至るまでそのようなうわさは絶えないわけですから、ある意味定家の作戦勝ちなのかもしれませんね。

藤原定家と式子内親王にまつわる噂は多くありますが、それらのうわさが結集した結果、室町時代に能楽師金春禅竹により謡曲『定家』が生まれます。この謡曲では定家の妄執に苦しめられながらも、その妄執を手放すことができない式子内親王が描かれました。

式子内親王は美人だったのか?

式子内親王は皇女ですから、当時めったなことでは姿を現すことはありませんでした。そのため彼女が美人かどうか?はそもそも分かっていません。ただこのような伝説が生まれたのは、やっぱり定家がらみの伝説なんですよね。その内容はこんな感じです。

藤原定家は美女の式子内親王に思いをよせていた。しかし、定家は醜い男だったため、式子内親王は定家を嫌った。

ちなみに「定家は醜い男だった」ですが、これはあながち間違っていないのかもしれません。当時の公家の美しいの基準と言えば、いわゆるしもぶくれ顔で糸目、になるでしょう。

しかし定家の甥・藤原信実が書いたと言われる肖像画に描かれた定家の顔は、輪郭がすらりとしていて三白眼気味の顔です。当時の美の基準にはちょっと合わなそうです。(たぶん現代だったら割と格好良い感じの顔だったりします。)

式子内親王が美人かどうかは分かりませんが、式子内親王の父方の祖母、待賢門院は絶世の美女で有名でした。母の藤原成子も待賢門院の姪で、父の寵愛を10年ほどは独占しているような状態でしたから、美人だった可能性は高そうですよね。

血筋だけでいったら、式子内親王は美人だった可能性はそれなりにありそうな気がします。

式子内親王は法然と関係があったのか?

さて、式子内親王には実はもう1人恋の相手候補がいます。それは浄土宗の開祖、法然です。

式子内親王は出家した後「承如法」なる名前を名乗っているのですが、法然が「シャウニョハウ」なる、おそらく身分が高いと思われる女性相手に手紙を送っていることからそのように言われるようになりました。

式子内親王は仏事、加持祈祷の類を好まなかったと言われていますが、もしも法然に帰依していたのだとしたら、好まなくなってもおかしくはないですよね。

ただ法然は僧侶ですので、おそらく恋愛関係ではなかったと思われます。もしも関係があったとしたら、師と弟子みたいな関係性だったのではないでしょうか?

ちなみに式子内親王の死後に、式子内親王と対立した九条兼実が法然に帰依するようになっています。もしも法然が式子内親王ともかかわりがあったとしたら、不思議な縁ですよね。

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