2代将軍源頼家の側近・5人の近習たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

『鎌倉殿の13人』のタイトルにもなっている「13人の合議制」は、鎌倉時代初期、2代将軍頼家の専横に対抗するため生み出された政治体制でした。

さて、いきなり自分の権力に制限をかけられた頼家ですが、黙って13人の合議制を受け入れたでしょうか?……そんなわけがないですよね。

彼は対抗措置として、将軍に自由に面会できる人間を自分の近習であった5人に限定し、さらに彼らがなんらかの狼藉をしたとしても原則不問とするというトンデモ命令を出したのです。

さて、いきなり宿老ぞろいの13人の合議制メンバーに対抗できそう立場に成りあがった頼家の5人の近習ですが……彼らはどんな人物だったのでしょうか。調べてみました。

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頼家の5人の近習たち

爲梶原平三景時、右京進仲業等、奉行、書下政所云、小笠原弥太郎、比企三郎、同弥四郎中野五郎等從類者、於鎌倉中、縱雖被狼藉、甲乙人敢不可令敵對若於有違犯聞之輩者、爲罪科慥可尋注進交名之旨、可觸廻村里之由、且彼五人之外、非別仰者、諸人輙不可參昇御前之由〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

さて、頼家の5人の近習たちが登場するのは『吾妻鏡』によると正治元年(1199)四月のことです。

ただこの時点では「五人」とあるにも関わらず、名前が出てきているのは小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成の4人だけだったりします。

小笠原彌太郎長經、比企三郎、和田三郎朝盛、中野五郎能成、細野四郎、已上五人之外、不可參當所之由、被定〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

この3か月後、正治元年(1199)七月の吾妻鏡の記事を見ると5人の名前が出ていますね。

比企時員(比企弥四郎)の名前がなくなり、小笠原長経、比企宗員、和田朝盛、中野能成、細野四郎の5人になっています。

比企時員は比企宗員の弟ですから、同族扱いで名前が外れたのかもしれませんね。時員が失脚したとかいうわけではないでしょう。

頼家の特別な5人の近習たちを何と称するか、決まった称号のようなものはないようですね。ちなみに昭和の大河ドラマ『草燃える』中では、「5人組」と称されていたようです。

頼家の5人の近習は何をしたのか?

彼ら5人、どうしても北条氏に敵対した頼家の側近だったということもあって、あまりしっかりとした事績は残っていません。

彼らの話でおそらく一番有名なのは、正治元年(1199)七月に起こった「安達景盛の妾を奪って頼家の命令で略奪した」あたりでしょうか。

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最終的に景盛は妾を奪われただけでなく殺されそうになりますが、北条政子のとりなしでなんとか事なきを得ます。

ちなみにこの1月前の正治元年(1199)六月に、政子は次女・乙姫こと三幡を失っています。娘の死から立ち直る前に息子の醜聞に巻き込まれるとは、政子もやり切れなかったでしょうね。

頼家の5人の近習①:小笠原長経

頼家の近習たちの中では筆頭格にあったのでしょうか、常に最初に名前が出てくるのが「小笠原弥太郎」こと小笠原長経です。

小笠原長経は甲斐源氏・加々美遠光の孫です。加々美遠光の妻は三浦氏の娘とも、和田義盛の妹とも娘とも言われています。

さらに長経の父、長清は上総広常の長女と結婚していました。(長経の母は長清の別の妻だとする説が有力なようです)

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父の長清は海野幸氏らと並んで「弓馬四天王」と呼ばれるほど武芸にたけた武将で、頼朝のそば近くに仕えていました。

この生まれからして、長経は鎌倉の御家人の中でも有数のサラブレットであったことは間違いないでしょう。

さらに蹴鞠や流鏑馬などもたしなむ青年だったようです。彼が頼家に重用されたのもやむなしですね。

彼は頼家の側近として積極的に活動し、頼家の命令を受けて安達景盛の屋敷を包囲するなどしています。

しかし、比企能員の変に連座し北条氏に拘禁され、後に彼は鎌倉から追い出されることになります。

この時長経はまだ20代前半の若武者でしたが、この挫折は手痛いものだったでしょう。

鎌倉においては、弟の伴野時長が父長清の後継者となりました。失意の長経は信濃国で細々と生活を送ります。

長経はその後、父長清ともども承久の乱に参陣、なんとか阿波守護の地位につきました。ただ阿波守護職を後に弟とも実子とも伝わる小笠原長房に譲り、信濃国でゆるりと過ごしたようです。なんやかんやで信濃国が気に入っていたのかもしれませんね。

かつての主、頼家の娘すら死したのちの宝治元年(1247)に、彼は69歳でその生涯を終えました。

長経の子孫は細々と信濃国で活動しますが、霜月騒動で伴野氏が姻戚であった安達氏に連座して没落後、小笠原氏の嫡流としての地位をとり戻します。

彼らは南北朝の動乱や戦国の世を生き抜き、家名を存続させることに成功しました。江戸時代の小倉藩主小笠原家は、長経の子孫の家系にあたります。

頼家の5人の近習②:比企宗員

頼家の5人の近習には、比企能員の次男(一説には嫡男とも)である比企宗員も含まれていました。彼の母親は分かりませんが、もしも宗員が嫡男であったなら、母は能員正室・頼家乳母である渋河兼忠娘である可能性が高いでしょう。

彼は父、母ともに頼家の乳母父であり、姉妹(異母姉妹?)に頼家の側室・若狭局を持ち、頼家の嫡子である一幡の叔父(伯父)であるなど、頼家とは血縁的にも強固な関係性を築いていました。

しかしそれがゆえに、北条氏や古くからの御家人たちの妬みも買ったことでしょう。

宗員は、比企能員の変において討ち死にします。

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頼家の5人の近習③:比企時員

比企時員は、次兄である宗員ともども、頼家の5人の近習に指名されています。

のちに名前が外れていますが、失脚したわけではなく、兄の宗員ともども重用されたこと間違いはないでしょう。

彼もまた、比企能員の変において討ち死にを遂げました。

頼家の5人の近習④:中野能成

頼家の5人の近習たちの中で、実は彼だけ少し特殊な立場にあったりします。というのもこの中野能成、北条家のスパイだった説がある人物です。

中野能成は小笠原長経と同じく信濃国の武将でした。しかし甲斐源氏の流れをくむサラブレット・小笠原長経とは異なり、あくまでも彼は荘園領主を務めた御家人階級の出身です。

彼の父(養父とも)である藤原助弘が、平家政権下で信濃国中野郷西条の下司職についたことから、中野を名乗るようになっていました。

父助弘は平家だけでなく、木曽義仲が権力を持っていた時代には義仲にすりよるなどなかなか抜け目のない人物だったようです。そのような点がもしかしたら能成にも受け継がれたのでしょうか。

能成は頼朝の隋兵として活動したのち、頼家の近習となり、頼家に信頼を寄せられていたにも関わらず、北条氏とも関係を持っていたようでした。

比企能員の変後、能成は同輩の小笠原長経や細野四郎らともども比企氏の味方だとして拘束され、所領没収、流罪が決定した―にも関わらず!なんとその北条氏のドン・北条時政直々の書状によって、本領を安堵されています。どういうこっちゃ。

公式文書である『吾妻鏡』では処罰されたことになっているのですが、別の当時の文書などでは、所領安堵の上、一部所領での免税まで許されているのですね。

頼家の目をかいくぐって北条氏にすり寄ったことで、彼は5人の近習たちの中で唯一、何も失うことなく生き延びることができました。(小笠原長経は生きていますが、嫡子の立場を奪われたりしています)

ただ抜け目ない中野能成ですが、家族関係に関してはなかなか悩みが多かったようです。

兄である中野四郎には屋敷や土地を脅かされたりしていましたし、長男である中野光成を態度が悪い!という理由で廃嫡したりしています。

能成の跡を継いだのは次男の忠能でした。

能成は彼に本領である中野郷、志久見郷の惣地頭職を譲りましたが、忠能には娘しかおらず、中野氏の所領は孫娘の嫁ぎ先である市河氏に奪われることとなってしまいます。

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頼家の5人の近習⑤:和田朝盛

初代侍所別当にして、「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制メンバーでもある和田義盛の嫡男・常盛の嫡子、つまり和田義盛の嫡孫にあたる武将です。

比企能員の変の際には、父常盛、祖父義盛ともども、追討軍に参加したことから小笠原長経、中野能成、細野四郎らと異なり連座することはありませんでした。

ありませんでしたが、しかし祖父・義盛は北条氏に追い込まれて、和田合戦が起こってしまいます。父の常盛もまた、祖父義盛ともども討ち死にして果てました。ここから彼の栄光に満ちていたはずの御家人人生は暗転します。

朝盛もまた、和田合戦にて討ち死にしてもおかしくない―はずでしたが、彼は実は生きていました。

朝盛は、頼家の死後は三代目将軍・実朝の近習として仕えていました。実朝は朝盛のことを重用しており、朝盛もまんざらではなかったようです。しかし、和田一族は幕府に敵対する道を選びます。

忠誠を誓った主人か、それとも愛してくれた家族か―彼はどちらも選べず、出家遁世しようとします。

しかし祖父義盛は無理やり連れ戻し、和田合戦に参加させますが―結果は和田一族の敗北。父や祖父、叔父たちが果てる中、彼はなぜか生き延びてしまいます。(もしかしたら実朝の嘆願などもあったかもですね。)

その後、しばらく消息不明になりますが、彼はなぜか承久の乱において、上皇方の武将として参戦します。ちなみに朝盛の子である佐久間家盛は、幕府方についていました。また家族と主人との板挟み状態ですね……。

なぜ朝盛は幕府方ではなく、上皇方を選んだのでしょうね。もともと和田合戦前の出家時には京に行こうとしていたようですから、和田合戦後は鎌倉ではなく京で生活していたのかもしれません。また、彼の主人であった実朝はすでに亡く、自暴自棄になっていたのかも。

朝盛は承久の乱後、幕府方の追っ手からおよそ6年にわたり逃亡しますが、嘉禄三年(1227)に捕縛されます。その後彼がどのような運命をたどったのかはよく分かりません。息子・佐久間家盛のもとに引き取られたのか、あるいはそのまま斬られたのか、流刑となったのか。

朝盛自身は落魄していく人生でしたが、朝盛の長男・家盛は尾張佐久間氏の祖となり、彼の子孫は江戸幕府の幕臣として続いています。

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頼家の5人の近習⑥:細野四郎兵衛尉

被召禁小笠原彌太郎、中野五郎、細野兵衛尉等、此輩恃外祖之威、日來與能員、成骨肉之眤、去二日合戰之際、相伴廷尉子息等之故也嶋津左衛門尉忠久、被收公大隅薩摩日向等國守護職是又依能員縁坐也加賀房義印束手、參遠州侍所〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

上記5人のメンバーたちと異なり、彼だけが諱が分かりません。そのため、通称である「細野四郎兵衛尉」と表記します。

武家で細野氏と言うと、長野工藤氏(工藤祐経の末裔)の分家である細野氏が思い浮かびますが、さすがに時代が違いすぎるので、おそらく細野四郎兵衛尉は工藤氏とは何も関係性がない可能性が高いでしょう。

細野四郎の名前が『吾妻鏡』で最後に登場するのは、建仁三年(1203)、比企能員の変の後のことです。彼は小笠原長経、中野能成ともども北条氏によって拘禁されたようです。

その後、彼がどうなったのかは分かりません。同じような立場にあった中野能成は表向きは処罰を受けましたが、実際には助かっていました。

しかし中野能成と異なり、この後、細野四郎の名前が出てこないことを考えると……。少なくとも所領没収などの憂き目にはあったのではないでしょうか。

もしもよりひどい罰を受けていた場合、流罪や死罪になった可能性も否定できません。

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