藤原道長に敗れた悲運の御曹司・藤原伊周の妻と子と子孫たち

古代史(日本史)

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摂関家の最盛期を築いたのは、皆さんもご存じ藤原道長、そしてその息子である藤原頼通です。

しかし、道長が権力をふるうその栄華の中で、道長に追いやられ、失意のまま亡くなった人物も少なからずいました。

その代表例が、道長の長兄・道隆の嫡子(つまり道長の甥)で、一条天皇の皇后定子の兄であった藤原伊周です。

彼は最終的に政変に巻き込まれ、太宰権帥―かつて藤原氏によって失脚させられた菅原道真のように、大宰府へと左遷させられることになります。

その後は都へ戻ることを許されますが、道長の栄華の中で彼は長生きすることが出来ませんでした。

本人としては不遇な思いをすることも多かったであろう藤原伊周ですが、伊周の妻、子、子孫たちはどのように生きたのでしょうか。

ここでは藤原伊周の妻子と子孫について調べてみました。

藤原伊周の正室:源重光の娘

世継「源大納言重光の御女の腹に、女君二人・男君一人おはせしが、…(中略)…「あやしき有様をもしたまはば、なき世なりとも、かならずう恨みきこえむずるぞ」とぞ、母北の方にも、泣く泣く遺言したまひけるかし。

引用:『大鏡』

藤原伊周の正室は、権大納言源重光の娘でした。

彼女の父・重光は娘婿である伊周に大納言の官職を譲って朝廷を辞した為、「致仕大納言」と呼ばれています。

ちなみに彼女の姉妹の一人(源重光の別の娘)は道長の側室として息子・長信を産んでいます。不思議な因縁ですね。

藤原道長の妻(正室・側室)たち
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藤原伊周の正室として、源重光の娘は、伊周との間に娘二人(長女:藤原頼宗正室と次女:帥殿の御方)と嫡男・道雅を儲けています。

しかし長徳二年(998)に、夫の伊周は失脚、大宰府へ流罪となってしまいます。

さらに、隠居していた父親の重光が伊周が大宰府に流罪になっている間に亡くなりました。

夫は流罪、後ろ盾の父親もいなく、伊周の流罪中はかなり心細い思いをしたのではないでしょうか。

彼女がいつごろ亡くなったのかは分かっていませんが、伊周よりは長生きしました。

伊周は彼女があまり強くない人―娘たちの身の振りに関して気が利くような人ではない、という趣のことを臨終の際に述べ、娘たちの今後を嘆いたといいます。

そしてその懸念は実現しました。

伊周の死後は、后がね、つまり将来は天皇の妃となるように育てた娘たちのうち一人は道長の息子・頼宗の妻となり、もう一人の娘は女房として出仕させざるを得ないといった状況となります。

夫の危惧していた通りになってしまった―そういう思いもあり、彼女の晩年はなかなか苦しい生活だったのではないでしょうか。

藤原伊周の側室:寝殿の御方/鷹司殿の上(藤原為光の三女)

一条摂政殿の御女の腹の女君たち、三・四・五の御方。三の御方は、鷹司殿の上とて、尼になりておはします。

引用:『大鏡』

伊周の失脚のきっかけとなった、「花山法皇に矢を射かける事件」のきっかけとなった女性です。

彼女は太政大臣・藤原為光の三女として生まれました。

正確な年齢は分かりませんが、妹にあたる穠子が979生まれ、姉にあたる忯子(花山天皇女御)が969年生まれであること、同母の兄の藤原道信が972年生まれであることなどから、973~遅くても978頃の生まれであると仮定されます。

成長した彼女は、最初祖父と孫ほどの年齢差(50歳以上年齢が離れていました)である左大臣・源雅信の妻となります。

ちなみに、この最初の夫・雅信が別の妻(藤原穆子)との間に儲けた娘が、藤原道長正室・源倫子です。

当時の公家は親戚同士が多いですが、ここもまた不思議な因縁がありますね。ちなみに継娘である倫子のほうが10歳ほど年上です……。

結婚した当時、すでに雅信は高齢だったこともあって、正暦四年(993)には死別しました。彼女はまだ10代後半だったかと思われます。

父である為光もすでに亡くなっていたこともあり、彼女は再婚することなく、実家に戻って気ままに生活してきたようです。

夫の死から5年ほどたった長徳年間に伊周が通い始めるようになりました。

前の結婚とは違い年若い美形の公達を相手とした恋は、彼女にとっても嬉しいものだったのではないでしょうか。

しかし、彼女との恋が伊周の政治生命にとどめを刺しました。

当時、彼女は妹の四の君と同居していたのですが、この四の君には花山法皇が通っていました。

しかし伊周は、花山法皇は自分の想い人である寝殿の御方に通っているのだ!いくら法皇とて許せない!と勘違いし、最終的に法皇を脅すため矢を射かけるという事件にまで発展します。

正月十六日、右府消息云、花山法皇・内大臣・中納言隆家相二遇故一条太政大臣家一、有二闘乱之事一、御童子二人殺害、取レ首持去云々

引用:『野抄記』

脅しのつもりだったその矢は法皇のお供の童子を殺し、法皇の袖を衝き通しました。

そして、これは臣下に過ぎない者が、天皇家に矢を射かけるというとんでもない事態だと受け止められます。

これに関連して、伊周と弟・隆家による東三条院(一条天皇生母)呪詛疑惑まで出てきた結果、伊周は大宰府へと流されてしまいました。

伊周の流罪後、彼女がどうなったかは分かりません。

大鏡によると彼女は出家していたとのことですから、伊周の流罪に責任を感じて出家したのかもしれません。

彼女の二人の妹たちは、後に道長の娘たちの女房となり、さらに道長の愛人となっています。

もしかしたら彼女にも道長の娘たちへの出仕の話があり、それを拒むために出家をしたのかもしれませんね。

藤原伊周の側室:源致明の娘

藤吾伊周の三男(次男?)藤原顕長の母親は源致明の娘でした。

源致明は、元をたどれば文徳天皇につながる文徳源氏の出身で、土佐守、和泉守を務めることなどもあったいわゆる受領階級の人間でした。

藤原伊周の側室?:大中臣輔親の娘(伊勢大輔)

いにしへの ならのみやこの 八重桜 けふ九重に にほひぬる哉

引用:『詞花和歌集』

藤原伊周の次男とされる藤原忠親の生母は、伊勢神宮の神官・大中臣輔親の娘だと伝わります。

彼女は、「伊勢大輔」の名で、上東門院に出仕した女房でした。

大中臣輔親は和歌の才で知られたように、娘の彼女も和歌に優れており、上記「いにしへの……」の和歌は、百人一首にも選ばれた非常に有名な和歌です。

公的には彼女は同じく中流貴族階級であった高階成順と結婚、数人の娘を産んでいるのですが、なぜか伊周と結婚して男子を産んだ!とする系譜が残っていたりします。

『大森葛山系図』によると、彼女は伊周との間に男子・藤原忠親(忠周)を儲け、その男系子孫は駿河国の武家・大森氏と葛山氏となり、少なくとも江戸時代まで続いたことが確認されます。

藤原伊周の側室?:有道氏

藤原伊周の家司だった有道惟能の関係者と思われます。

彼女は、伊周との間に息子を一人産み、この息子がのちの児玉氏の祖となったといいます。

藤原伊周の長男:藤原道雅

男君は、松の君とて、生れたまへりしより、祖父大臣いみじきものに思して、迎へたてまつりたまふたびごとに、贈物をせさせたまふ。御乳母をも饗応したまひし君ぞかし。この頃三位しておはすめるは。

引用:『大鏡』

藤原伊周と正室・源重光娘との間に生まれた長男(嫡男)が、藤原道雅です。

幼少期は祖父道隆による中関白家の栄華の中で育ち、あの枕草子の中では「松君」の名前で登場しその愛くるしさを称賛されるなどして、将来を嘱望されていました。

しかし父伊周は失脚、摂関の御曹司として育つはずだった彼は不遇の生涯を送ることとなります。

花山法皇皇女の襲撃事件の黒幕に擬せられたり、斎宮だった三条天皇皇女・当子内親王との恋愛事件で名をはせた彼は「荒三位」の名前で呼ばれることとなります。

妻の一人であった大和宣旨(上東門院女房)も、夫を見限って家を出る有様でした。

一方でその荒れた行状・不遇の生涯、また祖母高階貴子(道隆正室・百人一首歌人)の血筋などが歌才へとつながったのか、彼は百人一首にも選ばれるほどの歌人となっています。

道雅自身の荒れた生活も影響したのでしょうか。

出て行った妻・大和宣旨が生んだ息子を含めて、道雅の息子2人はいずれも僧侶となりました。公的には伊周―道雅とつづいてきた伊周の男系子孫はここに途絶えます。

ちなみに道雅は紫式部の夫・藤原宣孝が別の女性との間に儲けた娘も妻にしています。

彼女との間に儲けた娘・上東門院中将は、上東門院藤原彰子の女房となった後、「佐中弁義忠」なる人物と結婚しています。

この娘は父同様に歌才に優れていたようで、後拾遺和歌集に和歌が選ばれています。

藤原伊周の次男?:藤原忠親(忠周とも)

『尊卑分脈』等には記載なし。『大森葛山系図』によると、後の駿河国の武士・大森氏・葛山氏の祖と言います。

藤原伊周の三男:藤原顕長

藤原伊周の三男・藤原顕長に息子がいたかどうかは定かではありません。

娘が一人おり、彼女はのちに祐子内親王に女房として出仕し、伊賀少将と名乗ります。

和歌に巧みであったようで、伊賀少将の和歌は後拾遺和歌集にとられています。

藤原伊周の四男?:有道遠峰(児玉惟行)

武蔵七党の一つ・児玉氏の祖として名前が挙がる人物。母有道氏と同族と思われる有道惟能は、伊周の家司でした。

しかし、伊周失脚後に京から追い出され武蔵国に下向、児玉郡を開拓し在地の武士となりました。遠峰はこの惟能の養子となり、以後児玉氏を名乗ったと伝わります。

ただ実際には、有道氏の産んだ伊周の息子・有道遠峰なる人物はは存在せず、児玉氏は普通に有道惟能の子孫では?と言われています。

彼の子孫・児玉党は武蔵七党の中でもその武勇で知られます。

特に安芸国に渡った一族は栄え、江戸時代に毛利輝元の側室を輩出したことで、長州藩主毛利家に児玉氏の血を伝えました。

藤原伊周の娘:藤原頼宗正室

その君たち、大姫君は、高松殿の春宮大夫殿の北の方にて、多くの君達うみつづけておはすめり。それは、あしかるべきことならず。

引用:『大鏡』

藤原伊周の死後さほど経たないうちに、伊周の長女は藤原道長の次男・頼宗と結ばれました。

頼宗はなかなか女性関係には華やかな一面もあったようですが、伊周長女のことは大事にしていたようで、彼女との間に多くの子供を儲けています。

頼宗と伊周長女との間に生まれた娘たちはいずれも天皇家と縁づいています。

長女は小一条院こと敦明親王の後妻に、次女の延子は後朱雀天皇の女御、三女の昭子は後三条天皇女御です。

また次男・俊家の娘全子は摂関家の嫡流と結ばれたことで、藤原忠実以降の摂関家当主にと伊周の地を伝えることとなりました。

この長女は頼宗に先立って、長元七年(1034年)に亡くなりました。

しかし彼女は兄・道雅や妹・帥殿の御方とは違い、伊周の血筋を後世へと伝える役割を果たしました。

藤原伊周の娘:藤原周子(帥殿の御方とも、藤原良頼室、その後藤原能信室?)

いま一所は、大宮にまゐりて、帥殿の御方とて、いとやむごとなくてさぶらひたまふめることは、思しかけぬ御有様なめれ。あはれなりかし。

引用:『大鏡』

正五位下に藤原周子<大宮、故帥殿の二姫。>、従五位下に藤貞子<中宮。>。了りて慶びを奏す。

引用:『御堂関白記』

父親・伊周からは「天皇の后となるべく育てた人たちなのだから、くれぐれも女房になって宮仕えすることなどないように」と姉ともども言われていた伊周の次女ですが、最終的に彼女は宮仕えすることを余儀なくされました。

彼女が仕えたのは中宮藤原彰子、叔母・藤原定子のライバルであった女性でした。

彰子は出仕する前の彼女に何度も(おそらく女房としての勧誘目的の)手紙を出していたといいます。

道長、ひいては彰子としても、中関白家の血筋を何とか自分たちの下に置いておきたかったのでしょうね。

女房名として、大臣級の娘にのみ許される上臈女房の名乗り「御方」を許されていましたが、本来ならば后妃ともなりえたという自負もあったでしょうから、悔しく感じることもあったかもしれません。

寛仁二年(1018)に彼女は彰子の女房として、正五位に任じられています。

女房生活の傍ら、帥殿の御方は従兄弟にあたる藤原良頼(叔父・隆家の息子)と結婚しています。

しかしその後、いつのころかは不明ですが、義兄・頼宗の弟である能信(藤原道長の四男)と再婚したようです。

良頼とは死別か離婚かはよく分かりません。

良頼は源経房の娘との間に嫡男・藤原良基を儲けていますから、二人の間に息子は生まれなかったようです。

再婚相手の藤原能信との間にも子供は生まれていないようですね。

ちなみに、再婚相手の藤原能信は、摂関家の生まれでありながらも、昇進面で異母兄弟の頼通・教通の後塵を拝していたことから摂関家に批判的な「摂関家の異端児」でした。

もしかしたらお互いの御堂関白流の摂関家への不満などを共有しているうちに親しくなったのかもしれませんね。

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