北条時房の妻(正室、側室)と子たち

中世史(日本史)

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北条義時の異母弟にして、鎌倉幕府の初代連署(執権の補佐役みたいなものですね)になった北条時房。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、瀬戸康史さんが演じることでも話題ですね。

そんな北条時房の妻(正室、側室)と子供について調べてみました。

正室:足立遠元の娘

北条時房の正室は、「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制メンバーの1人、足立遠元の娘です。

ちなみに足立遠元の娘と言えば、北条時政の側室で時房の母なのでは?という説もあるようですが、これは『足立系図』における「修理権大夫平時房朝臣遠江守時直等母也」という文言によるものみたいですね。

確かにこれだけみると、北条時房と時房の子である時直の母!であるように思われますが、おそらく「平時房朝臣妻也」と記載したかったところ、「妻也」が滑落してこのようになったのだろう……ということです。

彼女は時房の五男・時直と、おそらく嫡男となった朝直、また三男である北条資時の母ではないかと言われています。また、時房には他にも何人も子がいるため、まだまだ産んだ子はいるかもしれません。

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北条時房の側室?:北条時盛、北条時村の母

北条時房には七人の男子、四人の娘がいます。さすがに11人の子を一人の女性が産んだとは考えづらく、何人かは時房の側室の所生であったと思われます。

その中でも、長男である北条時盛、次男である北条時村の母親は側室であった可能性が高いでしょう。もしも彼らが正室・足立遠元娘の所生であるならば、彼らが嫡男になっていたはずだからです。

しかし時房の嫡男は、三男資時、次いで四男朝直でした。よって北条時盛、北条時村の母親は側室とみて間違いはないでしょう。

北条時房の側室:不明

北条時房の側室について、分かっていることはほとんどありません。ただ、時房の男子たちの中で唯一僧籍に入った忠源の母親なども、おそらくではありますが側室であった可能性が高いでしょう。

時房の側室は1人、2人ではなく、複数いた可能性が高そうです。

北条時房の子供たち

北条時房には七男四女がいました。ここでは、時房の子供たち1人1人に迫っていこうと思います。

北条時房の嫡男?:北条資時

相州息、次郎時村、三郎資時等、俄以出家時村、行念資時、眞照〈云云〉楚忽之儀人怪之

引用:『吾妻鏡』

通常は相模三郎。おそらく三男でした。彼の後に嫡男となった弟・朝直同様に母親は足立遠元の娘だと言われてはいますが……。

同母兄弟(足立遠元の娘所生)である朝直、時直が二人とも「直」を共通の諱にしているのに対し、彼はそうでないことから、実は足立遠元の娘所生でもないのでは?とも。(烏帽子親の名前をとった可能性も高そうなので、何とも言えないですが。)

承久2年(1220年)、22歳の時にいきなり次兄の時村ともども、出家してしまい、彼は時房の嫡男ではなくなりました。(このことも絡めて、足立遠元娘の所生ではない説が根強かったりします。)

ただ出家後も、彼は評定衆につくなど、一定の権力を握ってはいたようです。また、蹴鞠や和歌に優れるなど、質素倹約を重んじた北条家では珍しく、貴族趣味なところもあったようです。

彼の一人息子・時成は「物狂」であったため子孫は残さなかったようです。一人娘は、次兄時村の子(甥)の北条時広の正室となっています。

北条時房の嫡男:北条朝直

嘉禎二年〈丙申〉 正月小 一日 己未晴 ■飯、〈相州御沙汰〉、今日、不被上御簾依御歡樂、無出御之故也御劔、陸奥式部大夫政村御弓矢、越後太郎光時御行騰沓、相摸式部大夫朝直一御馬〈置鞍〉

引用:『吾妻鏡』

北条時房の四男・北条朝直は、三兄資時の出家後、時房の嫡男となりました。大仏流北条氏の祖で、通称は相模四郎です。兄・資時同様に、評定衆として活動していました。

彼はもともとは伊賀光宗の娘(北条義時継室・伊賀の方の姪)と結婚していたのですが、父時房・従兄弟泰時によって引き裂かれ、最終的に泰時の娘と再婚することとなります。

この泰時の娘は寛喜三年(1231)に男子を産んでいるのですが、この子は結局朝直の後継者にはならなかったようです。朝直の後継者となった北条宣時は、暦仁元年(1238)の生まれです。彼の母は誰かは分かっていません。

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朝直の側室には安達義景の娘もいたそうですから、宣時の母はあるいは彼女だったのかもしれません。

朝直の子孫である大仏流北条氏最後の当主・北条家時は、1333年、他の北条一族ともども、東勝寺にて果てました。家時の弟たちは、足利氏に降伏し、一時的に生き永らえますが、のちに処刑されています。ここに大仏流北条氏は断絶しました。

北条時房の長男:北条時盛

北条時房の長男。通称は相模太郎。佐介流北条氏の祖です。六波羅探題を務めました。

父時房の後継者となった朝直、朝直の舅であった執権・北条泰時にはかなり警戒されたようで、六波羅探題として在京し、あまり鎌倉にいることがなかったのには弟や北条泰時の暗躍があったようです。

時盛の子孫は、いわば本家である朝直の子孫・大仏流北条氏に押されて、あまり栄えませんでした。

時盛の娘の一人は、足利頼氏に嫁ぎ、足利尊氏の祖父となる足利家時の義母となりました。つまり足利尊氏の義理の曾祖母ということですね。

北条一族の中では傍流で、かつ政争に巻き込まれ不本意な生涯を送った時盛の怨念が、義理とはいえ子孫の尊氏に伝わった……というのはさすがに言いすぎでしょうね。

ちなみに、時盛の別の娘は北条重時の子から始まる赤橋家に嫁いでいます。彼女の子孫には、足利尊氏正室赤橋登子がおり、室町幕府2代目将軍足利義詮以降の足利将軍には、赤橋登子の血、ひいては北条時盛の血が流れています。

北条時房の次男:北条時村

北条時房の次男で、通称は相模次郎。すぐ下の弟・資時とともに、承久2年(1220年)出家を果たします。

資時はその後もしばらく長生きしましたが、時村は出家後さほどたたずに、嘉禄元年(1225年)12月に亡くなっています。まだ幼かった彼の子たち(北条時隆、北条時広など)は父・時房の手元で育てられたようです。

ちなみに早世したというのは事実ではなく、出家後に鎌倉から上京し、親鸞に帰依して越前の浄土真宗の寺院・興宗寺の開祖になったという異説もあります。

北条時房の五男:北条時直

北条時房の五男で、通称は相模五郎。時房嫡男・朝直同様に、父の正室である足立遠元娘の所生だと伝わります。

三兄である資時同様に、和歌の才に優れていました。子の清時ともども、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の近臣だったようです。

孫・時俊は北条方として、河内国で楠木正成らを攻めましたが、鎌倉幕府滅亡後の建武元年(1334)に、阿弥陀峰にて斬首され果てました。ひ孫・貞俊もまた、流罪先の阿波国で斬首されています。

北条時房の六男:北条時定

北条時房の六男で、通称は相模六郎。摂家将軍の九条頼経、九条頼嗣親子の近習を務めました。

彼は執権北条泰時の孫娘(北条時氏の娘で、執権北条経時・北条時頼の姉妹)と結婚していましたが、子供がいたかどうかは定かではありません。

彼の妻の姉妹には、主君でもあった九条頼嗣の正室・檜皮姫がいました。

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北条時房の七男?:忠源

文保三年四月七日。壬申。忠性僧都参る。先日忠源僧正に仰するところの返事を申す。

引用:『花園天皇宸記』

北条時房のおそらく七男。(出家しているため、兄弟の長幼がよく分かりません。)一説には、時房の次男・時村の子であるとも。

時房の息子たちの中で、彼のみ幼少期から出家していたようです。鎌倉から遠く離れた、比叡山延暦寺にて僧侶生活を送り、僧正にまで出世しています。

おそらくではありますが、新後撰和歌集、風雅和歌集に一首ずつ入選している「前大僧正忠源」とは同一人物?ではないかと思われます。

忠源僧正は、持明院統の伏見院、花園院とも関りがあったようで、『花園天皇宸記』などにも登場しています。(もしかしたら同名の別人物かもしれないですが……)

北条時房の娘:一条頼氏の妻

北条時房の娘の一人は、公家の一条頼氏に嫁ぎました。夫の頼氏は、源頼朝の妹・坊門姫の孫でした。

彼女は承久の乱の前に嫁ぎ、頼氏の嫡男・能基を産んでいます。承久の乱の際、夫の頼氏は鎌倉に逃れ、北条氏に密告をしたため、承久の乱後も彼は順調に昇進を果たしました。

彼女の二人の息子たち(能基、能清)たちは、母方の北条氏の縁もあり昇進を果たしましたが、孫以降の代では北条氏との婚姻関係は結ばれることなく、子孫は衰退します。

能清の孫・一条実遠が鎌倉時代末期の延慶元年(1308)に、関東において不慮の死を遂げた後、一条家は途絶えたと伝わります。

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北条時房の娘:北条(名越)朝時の妻

北条時房の娘の一人は、従兄弟にあたる北条義時次男(正室・姫の前の長男)である名越朝時(北条朝時)に嫁いでいます。

朝時の前妻は、「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制メンバーである中原親能の猶子、大友能直の娘だったため、時房の娘は後妻ということになります。

時房の娘は朝時の五男・北条教時を産みましたが、この教時は、二月騒動で八代執権・北条時宗に息子ともども討ち取られています。

朝時の六男・北条時基の母は北条政村の娘と伝わりますが、あるいは北条時房娘の所生であったかもしれません。

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北条時房の娘の一人は、「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制メンバーの一人。安達盛長の孫にあたる安達義景に嫁いでいます。

彼女は義景の正妻だったと伝わりますが、義景の嫡男・泰盛の母・小笠原氏が正室で、彼女は継室だった可能性もあります。

ちなみに義景の娘の一人は、兄弟である朝直の側室になっています。北条朝直からすると義景は舅であり、義兄でもあったわけですね。ややこしい……。

北条時房の娘は、八代目執権・北条時宗の妻となる覚山尼(堀内殿)を産み、九代目執権・北条貞時の祖母となりました。

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北条時房の娘:長井時広の妻

北条時房の娘の一人は、「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制メンバーの一人、大江広元の次男・長井時広に嫁いでいます。

ちなみに、大江広元の長男・大江親広は時房の兄である義時の娘・竹殿と結婚しています。

義兄(大江広元の長男)の大江親広が、承久の乱後に失脚したため、彼女の夫の時広は、舅・大江広元の後継者となりました。彼女の所生かどうかは分かりませんが、長井時広の嫡男・長井泰秀の子孫は長井氏を名乗り、出羽国、備後国などに根付きました。

出羽国の長井氏は南北朝時代に衰退しますが、備後国の長井氏の女系子孫には、中国地方を代表する戦国大名・毛利元就がいます。

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