服部正成(服部半蔵)の妻(正室、側室)たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

「どうする家康」では山田孝之さんが演じることでも話題となっているのが、いわゆる「忍者軍団の頭」と言われている服部半蔵こと服部正成です。

この服部正成の妻(正室、側室)にはどのような女性がいたのでしょうか。やっぱり「女大鼠」みたいなくのいちだったのか……?

気になったので調べてみました。

服部正成(服部半蔵)の正室:長坂信政の娘

服部正成は天正三年(1575)、自身が33歳の時に徳川家家臣の長坂信政の娘を正室に迎えました。

というわけで、正成の正室はくのいちではなく、れっきとした武家の女子だったようです。(そもそも服部正成は忍者というよりも忍者をとりまとめる役人のような立場だったわけですから、当然と言えば当然ですね。)

正室の父の長坂信政は槍の達人として知られ、その武勇から「血鑓九郎(ちやりくろう)」なる物騒なあだ名を持っていました。あだ名が強い……。

正成はこの正室との間に、天正四年(1576)に長男・正就、天正八年(1580)に次男・正重を儲けています。

服部正成(服部半蔵)の側室?:服部康成の母

正成は正室と結婚する前の永禄九年(1566)に、後の陸奥弘前藩家老となる服部康成を庶子として儲けていたと言う説があります。

服部康成はもともと徳川家の家臣でしたが、のちに織田家から津軽家の家臣となり、弘前藩津軽家の家臣となった、という経歴の人物です。

「服部」を名乗るからには少なくとも服部正成の同族、さらに正成との年齢差を考えると親子であってもおかしくはない!のですが……。

ただ実際に康成が正成の子であったかと言うのはいまいち詳細が分かっておらず、ただ服部氏の同族であったと言う可能性も。

康成と言う名前は正成の「成」、さらには家康の「康」を合わせた字ですから、服部一族の中でもかなり有望視されていた人物であることは間違いないのでしょうが……。

ちなみに康成は父親のことも不明ながら、母親も誰かは当然ながら分かっていません。

もしも康成が正成の子であるのならば、康成の母は若き日の正成の恋人だったのかもしれませんね。

服部正成(服部半蔵)の側室?:服部正広(正廣)の母

正成には三男・正広(正廣、郷八郎)がいたともいいますが、彼の母親は分かっていません。もちろん正室の長坂信政娘所生の可能性も高いでしょう。

しかし、正広はなぜか兄弟と違い、出家しています。そういったことを考えると、もしかしたら正広は側室の子だったのかもしれませんね。

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