北条義時とその正室・姫の前の長男として生まれながらも、父の後継者になれなかったのが、義時の次男にあたる名越(北条)朝時でした。
祖父にあたる北条時政の名越邸を相続するなどしており、おそらくその将来を嘱望されていたにもかかわらず、彼は兄泰時に嫡子の座を奪われることとなります。
そんな名越朝時の妻と子について調べてみました。
名越朝時の正室:大友能直の娘
名越越後守平朝時室、尾張守光時、備前守時長、修理亮時幸等之母儀
引用:『大友系図』
名越朝時の正室は、大友能直の娘でした。母親は不明ですが、あるいは父の正室・深妙尼だったかもしれません。
大友能直と言えば、中原親能の猶子で、頼朝の寵愛が篤かったこと、実母・利根局が頼朝の愛人(疑惑?)だったことから、「頼朝の実子」説があることでも有名な人物ですね。
かなり可能性は低いですが、もしかしたら朝時の正室は頼朝の血を引いていたかも……?
彼女は朝時との間に、少なくとも三人の男子(光時、時章、時長)を産んでいます。
彼女がいつごろ亡くなったのかは分かりません。
ただ、継室・北条時房の娘が嘉禎元年(1235)に朝時の五男・教時を産んでいることを考えると、それ以前には亡くなっていると思われます。
名越朝時の継室:北条時房の娘
遠江守平教時 二月十一日誅 遠江守朝時朝臣男 母修理権大夫時房朝臣女
引用:『関東評定衆伝』
名越朝時の継室は、朝時の従姉妹にあたる北条時房の娘でした。彼女は、朝時の五男にあたる教時を産んでいます。
日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびゃうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり
引用:『上野殿御返事』
名越の事は是にこそ多の子細どもをば聞て候へ。ある人のゆきあひて、理具の法門自讃しけるをさむざむにせめて候けると承候
引用:『王舎常事』
日蓮聖人の信者でありながらも、日蓮が鎌倉幕府によって迫害された際にその教えを捨てたことで非難を受けた「名越の尼」(領家の尼)は、一説には名越朝時の妻だったといいます。
もしかしたら、時房の娘だったかもしれませんね。
もしも北条時房の娘(名越朝時継室)=名越の尼であったのならば、彼女は文永八年(1271)以後、もしかしたら息子・教時の文永九年(1272)の死のさらに後まで生き延びたのかもしれません。
名越朝時の側室:不明
名越朝時に側室がいたかはよく分かっていません。
ただ、名越朝時の子のうち、四男・時幸や公朝、女子たちは母親が分かっていません。
名越朝時の子の多さを考えてみても、おそらく朝時に側室はいたのではないか?と思われます。
名越朝時の初恋の人?:佐渡守親康の娘
相摸次郎朝時主、依女事蒙御氣色嚴閤、又義絶之間、下向駿河國冨士郡彼傾公、去年自京都下向佐渡守親康女也爲御臺所官女而朝時、耽好色、雖通艶書、依不許容、去夜及深更、潜到彼局、誘出之故也〈云云〉
引用:『吾妻鏡』
もともとは京にて生活していましたが、建暦元年(1211)に、鎌倉に下向、将軍・実朝の御台所・信子に仕える女官となりました。
どのような女性だったかは分かりませんが、父が「佐渡守」であることなどからして、彼女は京の中級貴族(受領階級)の出身、あるいは在京の武士の娘だったのでしょう。
どちらにせよ、雅をよく知った、たおやかな京美人ではあったのではないでしょうか。
そんな彼女に当時20歳の朝時はメロメロになってしまったそうです。ラブレターなんかも出しましたが、佐渡守親康の娘は袖にします。
あきらめきれなかった朝時はなんと深夜、彼女の居室に忍び込んで誘い掛けたそうですが、結局それがばれて朝時は蟄居する羽目になります。
京都使者、持參去十一日除目聞書 將軍家、叙從二位給 侍從清房 左京權大夫親綱 修理權大夫同長經 從二位實朝 從四位下清實 正五位下藤光俊 同孝通修理 從五位上藤親康
引用:『吾妻鏡』
建暦二年(1212)に京からの使者の一員として、「藤親康」(藤原親康)なる人物の名前があります。この人物がもしかしたら彼女の父親かもしれませんね。
名越朝時の子供たち
名越朝時は多くの子供たちを持っていました。しかし男子たちの多くは、得宗家に敵対したとして、処罰を与えられています。
嫡男:北条(名越)光時
入道越後守光時、〈法名蓮智、〉配流赴伊豆國越後國務以下所帶之職、收公之又上総權介秀胤、被追下上総國有相度事之由、依令露顯也
引用:『吾妻鏡』
名越朝時と正室(前室)・大友能直娘との間に生まれた長男です。
彼は宮騒動(五代目執権・北条時頼を廃そうとした謀反が発覚)にて失脚し、祖先の地である伊豆国・江間郷に流罪となりました。
また光時の流罪は、烏帽子親と子の関係にあった三浦光村の対得宗家感情を悪化させ、のちの宝治合戦の遠因へとも繋がっていきました。
光時の子孫は江間氏を名乗っています。(江馬親時らなど。)
子孫の江間氏は光時の罪を背負うことはなかったようで、光時の長男・江間親時は将軍家の護衛を務めています。
また江間親時の弟・盛時は鎌倉の稲瀬川に住んでいたことから、その子孫もまた「稲瀬川」を名乗ります。
光時の孫(光時の息子・北条政俊の子)にあたる、北条俊兼は、東勝寺にて、北条高時ら北条氏一門もろとも自害して果てています。
次男:北条(名越)時章
名越朝時と、大友能直の娘との間に生まれた、朝時の次男です。兄光時に代わって、名越流の嫡流を守っていくこととなります。
宮騒動の際には兄に連座して失脚しましたが、その後宝治元年(1247)には評定衆になり、名越一族の復権を果たしました。
しかし、二月騒動の際に弟・教時の謀反の動きに巻き込まれ、彼もまた殺害されてしまいます。のちに無実であることが判明し、子孫も連座することはありませんでした。
時章の子孫はその後も鎌倉幕府に仕え続けますが、ひ孫の北条(名越)高家の死(鎌倉末期の元弘の乱の鎮圧時に戦死)のすぐ後に鎌倉幕府は滅亡します。
高家の子孫については諸説ありますが、一説には、戦国時代を代表する美少年の一人にして歌舞伎の祖・名古屋山三郎は、高家の末裔であるとも。
名古屋山三郎の子孫は加賀藩士になっており、また山三郎の妹は、津山藩主・森忠政(森蘭丸や、鬼武蔵こと森長可の弟)の妻となっています。
三男:北条(名越)時長
名越朝時と、大友能直の娘との間に生まれた三男です。
一説には、彼の妻は三浦義村の娘とのことですから、実は北条泰時とは相婿(妻同士が姉妹)にもなるわけですね。
当初は兄光時らと同調し、将軍家に近しい立場をとっていましたが、宮騒動後は得宗家に与しました。
そのためか、子孫たちも鎌倉幕府内でそれなりの地位を築いていたようです。息子の長頼は備前守となり、また孫にあたる北条宗長は、能登国・安芸国・豊前国三か国の守護を兼任しています。
四男:北条(名越)時幸
名越朝時の四男で、母親は不明です。もしかしたら側室との間に生まれた子かもしれませんね。
宮騒動の際には兄ともども出家して北条時頼に降伏しています。
一説には兄をもしのぐほどの対得宗家強硬論者であったらしく、降伏後はすぐに病死したとも、あるいは自害させられたとも。
かなりきな臭い死であったことは間違いないようです。
五男:北条(名越)教時
名越朝時と継室の北条時房娘との間に生まれた、朝時の五男です。引付衆、評定衆を務めるなど、幕政に深くかかわっていました。
しかし、同時に反得宗家の意思も強く、鎌倉幕府六代目将軍・宗尊親王が京へ返される時に、当時の執権・北条時宗の意思に反した行動などをとっていました。
のちに二月騒動にて得宗家側の兵によって討ち取られました。息子の北条宗教・宗時らもまたこの時死亡したといいます。
ただ、宗教については生き延びたという説もあり、楠木正成と鎌倉幕府側が戦った千早城の戦いにて、甥の名越兵庫助(教時の孫ですね)と口論して相討ちして亡くなったともいいます。
六男:北条時基
名越朝時の六男で、生母は北条政村の娘と伝わりますが……北条時房娘の間違いでしょうか?(北条政村は、名越朝時の異母弟なので、朝時は姪と結婚したことになってしまいます。)
ちなみに六男と記載していますが、「七郎」が通称だったようですから、実は七男かもしれません。
宮騒動、二月騒動時にはかなり幼かったようで、兄たちには連座することなく順調に引付衆、評定衆と幕府の要職を務めています。
その縁もあってか、北条貞時の娘(北条時宗の孫娘で、従兄弟・北条泰時の来孫!)と結婚していたようです。
息子には、賢性、朝貞らがいたようです。このうち賢性のほうは、おそらく僧侶でしょう。
朝貞は時基の嫡男(生母は側室・二階堂行久娘)で、「中務権大輔」(小町中務大輔)と名乗っています。
鎌倉幕府の要職につき、また、歌人としても評価されており勅撰集の『玉葉和歌集』に和歌が収録されていました。
しかし、朝貞もまた、東勝寺にて、北条高時ら北条一門もろともその生涯を終えることとなります。
娘:北条時実室→宇都宮泰綱室
名越朝時の娘のうち、北条時実室と宇都宮泰綱室は別人として記載することもありますが、どうもこの二人は同一人物のようです。
北条時実の死後、宇都宮泰綱に再嫁したということですね。
北条時実は、北条泰時と継室・谷津殿(安保実員の娘)との間に生まれた次男です。
そのまま長じていればいずれ、得宗家の一員として、あるいは執権にもなっていたかもしれませんが……。かれはわずか16歳で、家臣に殺されてしまいます。
彼女と北条時実との間には子供はいませんでした。
再婚相手の宇都宮泰綱は、前夫・時実より10歳ほど年上です。
彼女は宇都宮泰綱との間に、泰綱の後継者となる宇都宮景綱、四代目執権北条経時(くしくも前夫・時実の甥)に嫁いだ娘などを儲けています。
北条経時室は結婚後すぐに、子供を産むことなく15歳で亡くなっています。しかし、もしもこの娘が長生きし、子供をうんでいたら、宇都宮泰綱室は執権の外祖母になっていたことでしょう。
娘:毛利広光室
名越朝時の娘の一人は、大江広元の四男・毛利季光の嫡男にあたる毛利広光に嫁いでいました。毛利広光は、宝治合戦にて父・季光ともども討ち死にします。
彼女に子がいたかは分かりませんが、広光の子は毛利季光の家督を継ぐことなく出家(園城寺の阿闍梨・円道)しました。
孫・公恵、房親らもまた僧侶となっています。(後の戦国大名・毛利氏は、広光の弟・経光の子孫です。)
娘:足利泰氏側室
名越朝時の娘の一人は、源氏の有力家門・足利家に嫁いでいます。足利氏には、北条時政の娘以来、多くの北条氏の女性が嫁いでいました。
彼女は、足利泰氏の正室として、2人の男子を儲けます。
しかし、ここでなんと!北条得宗家の北条時氏の娘(北条泰時の孫娘で、朝時娘からすると従兄弟の子になりますね)が、足利泰氏に嫁いでくることになったのです。
名越朝時の娘は正室の座を北条時氏の娘に譲り渡すことになります。
朝時の娘が産んだ二人の子供もまた、嫡子の座を追われることとなります。(北条時氏の娘が産んだ子が足利氏を継承しました。)
朝時の娘が生んだ2人の男子は、それぞれ、斯波家氏、渋川義顕と名乗ります。
後の室町幕府の管領家・斯波氏と九州探題・渋川氏の祖ですね。ちなみに、最上義光らを輩出した羽州探題・最上氏もまた、斯波家氏の子孫となります。
娘:岡女房
詳細は不明。「岡女房」という名前からすると、北条時政娘「稲毛女房」のように「岡」某に嫁いだ娘でしょうか?
七男?:公朝
名越朝時には、出家した息子が一人いました。
なぜ出家したのかは分かりませんが、おそらく庶子であったか、もしくは名越流迫害の流れの中で武士として身を立てることを断念せざるを得なかったのでしょう。
彼はある僧正の養子になったと伝わります。もしかしたら鎌倉ではなく、京にいたのかもしれません。
猶子(異父弟?):源輔時
名越朝時の母・姫の前が再婚相手との間に儲けたと言われる、朝時の異父弟です。
姫の前は再婚から3年足らずで亡くなっており、朝時なりに、母の顔を知らない弟を可愛がっていたのかもしれませんね。
この輔時の叔母にあたる女性は、後鳥羽院宮内卿という高名な女流歌人でした。
父の源具親(姫の前の再婚相手)も、歌人として活動していたこともあったようです。輔時もまた、もしかしたら和歌に堪能だったかもしれません。
輔時は朝廷に仕えたようですが、従五位左少将という官位に終わります。
輔時の子孫・親輔は、後に関東に住むようになったようですね。異母兄・朝時や重時ら、北条氏との関りが後々まで続いたのかもしれません。