姫の前~鎌倉幕府執権・北条義時最初の正室~

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

『鎌倉殿の13人』でまだキャストは発表されていませんが、ひそかに注目を集めているかもしれないのが、北条義時の最初の正室となる「姫の前」でしょう。

『吾妻鏡』においても、義時に熱望されて正室になったことが記される彼女ですが、その一方でいつの間にか義時のそばから姿が消えている女性でもあります。そんな姫の前について調べてみました。

姫の前の名前の意味

「姫の前」という名前についている「前」とは「御前」と同じような意味で、同時代であれば高倉天皇の寵姫「葵の前」、北条政子の侍女で平重衡の恋人「千手の前」などの名前にもつけられている一種の称号のようなものですね。貴い身分の女性を重んじてつけられているようなものです。

そのため、彼女自身は「姫」と名乗っていたのではないでしょうか。姫、というのは尊い女性、特に公家や皇族の女性を指すのに使われた称号です。姫の前の両親は、娘が貴婦人のように育つことを願って「姫」という名前をつけた……のかもしれませんね。

ただ「姫の前」という名前は、あくまでも女房としての名前で、彼女自身の本名(幼名)などは別にあった可能性もあります。

姫の前の父は比企朝宗、母(義母)は越後局

姫の前の父は、比企朝宗という御家人です。比企朝宗は、比企尼の実子とも、比企一族出身の武士で比企尼の養子とも言われています。いずれにせよ「鎌倉殿の13人」こと、13人の合議制の構成員であった比企能員の義兄弟であったことは間違いないでしょう。

朝宗の母(義理の母?)である比企尼は頼朝の乳母として頼朝に忠実に仕えたことで知られており、朝宗も頼朝と昵懇の間柄であったことだと思われます。

姫の前の母親についてはよく分かっていませんが、比企朝宗の妻(妾かも?)である北条政子の侍女・越後局の可能性があります。

越後局は1188年(文治4年)に、姫の前の弟になる朝宗の息子を1人産んでいることが記録に残されています。(越後局が産んだ男子がのちにどのようになったのかはよく分かっていません。)

越後局は、姫の前が結婚する4年前に朝宗の男子を産んでいるため、もしかしたら姫の前の実母ではなく、朝宗の後妻で姫の前の継母である可能性もありますね。

姫の前の父、比企朝宗は比企能員の変(1203年)が起こる約10年前、1194年(建久五年)頃の記録を最後に『吾妻鏡』からは姿を消しています。

また比企能員の変で亡くなった比企一族のメンバーとして、比企朝宗の名前は上がっていないため、おそらく比企能員の変の前、1195年~1202年ごろに亡くなったのでは?と考えられています。

姫の前と伊東祐親娘・八重姫の関係

北条義時最初の正室・姫の前と、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』における北条義時初恋の人、八重姫の関係性はどのようなものなのでしょうか。

まず、八重姫は夫義時の叔母、もしくは従姉妹になるため、姫の前からすると義理の叔母、もしくは義理の従姉妹という関係になるでしょうね。

姫の前自身の血縁関係をたどると、姫の前の父朝宗の姉妹(義理の姉妹?)にあたる比企尼三女は、伊東祐親の次男伊東祐清に嫁いでいましたから、血縁関係ではないですが、姻戚関係にはあったと言えるでしょう。

薄いつながりではありますが、姫の前は八重姫とも親戚と言って良いかもしれませんね。

姫の前は源頼朝の女房だった

建久三年九月大廿五日甲午。幕府官女〔号姫前〕今夜始渡于江間殿御亭。是比企藤内朝宗息女。當時權威無雙之女房也。殊相叶御意。又容顔太美麗云々。而江間殿。此一兩年。以耽色之志。頻雖被消息。敢無容用之處。 將軍家被聞食之。不可致離別之旨。取起請文。可行向之由。被仰件女房之間。乞取其状之後。定嫁娶之儀云々。

引用:『吾妻鏡』

さて、頼朝の乳母一族である比企朝宗の娘として生まれた姫の前は、成長すると鎌倉の御所に出仕することとなります。

彼女は頼朝の女房(女官)となりましたが、比企一族出身ということもあってか、若い女性ながらも、誰もがかなうことのないほどのかなりの権力をもっていたようです。また頼朝からもたいそう気に入られていたとか。さらに極めつけは「大層な美人」!

ここまでくると頼朝が手を出していてもおかしくなさそうですが……。どうもそういうことはなかったようですね。

頼朝からすれば自分の乳母の孫娘ということもあって、親戚の娘をかわいがるような感覚だったのかもしれません。あるいは、もう少し成長したら自分のものにするつもりだったのか?このあたりの人間関係も考えてみるとなかなか面白そうですよね。。

姫の前は北条義時最初の正室

さて、この大層美人かつ権力持ちの女房・姫の前にすっかり参ってしまった男がいました。『鎌倉殿の13人』の主人公、北条義時です。この時すでに義時には庶子・泰時が生まれていましたが、正妻はまだ持っていませんでした。

義時は姫の前に対して、子供持ちの男とは思えないほど純情なアタックを繰り出します。すなわち、恋文大作戦です。義時は姫の前に熱烈なラブレターを必死に書き続けます。

北条義時は1年間姫の前に手紙を出し続けますが、姫の前はその手紙を読むことすらしません。(このあたり、『平家物語』の平通盛と小宰相のエピソードにそっくりですよね……。どちらのエピソードが先なんでしょう?)

それを見かねた頼朝は、義時の恋路の手助けをします。義時に「絶対に離縁致しません」という起請文を書かせて、二人の仲を取り持ちました。(これが後々フラグになるとは本人たちもさすがに思っていなかったでしょうね。)

時は1192年(建久3年)9月のことでした。姫の前は義時の屋敷に入り、義時の正室となります。

姫の前は名越朝時、極楽寺重時、竹殿の母

姫の前は、3人の子供を義時との間に産みます。

祖父時政から名越邸を受け継ぎ北条泰時の後継者の位置をおびやかした次男・朝時、泰時やその後継者の時頼らをサポートしたことで知られる三男重時、御家人大江親広や公家土御門定通の側室(執権の娘が側室!というのはなんかびっくりですよね)となった娘・竹殿です。

姫の前の子供たち、特に朝時・重時は、後の比企能員の変、そしてそれにともなう姫の前との別離などもありいろいろ苦労したようです。

朝時は一時父・義時から「義絶」(≒勘当)されていますし、重時も幼少期の記録があまり残っていないことから父からはあまり顧みられていなかったとする説があります。

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姫の前の出身一族である比企一族が、「比企能員の変」でわずかな人々をのぞいて討ち滅ぼされてしまったのです。それも、姫の前の夫、北条義時の手によって。

姫の前が義時のもとを去ったのか、それとも義時が姫の前を放逐したのか、それとも北条一族が2人に別離を強いたのか。真相は分かりません。

一説には、姫の前と北条義時の婚姻関係は、比企能員の変以前にすでに破綻していたのでは?すでに源具親と再婚していたのでは?とも言われています。

分かっていることは、「比企能員の変」(1203年)の翌年である1204年には、姫の前は源具親と結婚しており、源輔通を産んでいること。もしかしたら、輔通の弟、輔時も姫の前の子かもしれないこと。

……そして彼女が、承元元年(1207年)3月29日、源輔通を産んでから3年ほどのうちに、京の都にて亡くなってしまったこと。

京の都での姫の前の死が、義時の耳に届いたのはいつのことだったのでしょう。その時、義時の胸に去来したのはいったい何だったのでしょう。すべては謎です。

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