織田信長の次男であり、小牧・長久手の戦いにおいて家康の同盟者となったのが織田信雄です。
後には、家康の三男にして後継者となった秀忠に娘・小姫を正室として輿入れさせるなど、家康とは良い関係を築いていました。
信雄はたびたび父とは異なり愚鈍だとされることも多い人物ですが、弟の信孝とは異なり秀吉治世下を何とか生き延びて、後には織田家の家督者にもなるなど、なかなかしたたかな生き方をしました。
そんな信雄の妻(正室、継室、側室)にはどのような女性がいるのでしょうか。
気になったので調べてみました。
織田信雄の正室:千代御前(雪姫)
父・信長は伊賀国を調略するために、信雄を伊賀国の有力者・北畠具房の養子とさせています。
その際に、信雄は具房の妹(北畠具教の娘)である雪姫(千代御前)と結婚しています。北畠家は公家の北畠家が南北朝時代以降土着化して戦国大名化したものでした。
ちなみにこの時信雄は11歳で、元服もまだの少年でした。
しかし、隠居したとはいえまだまだ実権を握っていた父・具教は息子・具房はもちろん、信雄に実権を渡すことはありませんでした。
天正四年(1576)、雪姫の父・具教は信雄らの命によって襲撃され、雪姫の兄弟たちともども殺害されてしまいます。
さらに伊賀国は、第一次天正伊賀の乱、第二次天正伊賀の乱という2度の信長軍による侵攻のため、多くの民が殺害されるなど文字通りの焼け野原となってしまいます。
父を殺し、故郷を焼け野原にした男のそばに、それでも雪姫はい続けました。
信雄もまた、彼女を離縁するようなことはありませんでした。そこに愛はあったのかどうなのかは分かりませんが……。
彼女は北畠家滅亡、さらには岳父・信長の死、小牧・長久手の戦い、さらには小田原征伐後の夫の改易なども見届けた後、文禄元年(1592)に亡くなっています。
彼女の細かい動向は分かりませんが、もしも夫の下野烏山への流罪に同行していたのなら、なれぬ土地での苦労が祟った可能性もあるでしょう。
雪姫は信雄との間に、信雄の後継者となる秀雄、徳川秀忠最初の正室となった小姫、早世した於加爾の3人の子を産んでいます。
秀雄は子を残すことなく亡くなり、小姫、於加爾もまた同じように子孫を残すことはありませんでした。(小姫に関しては、秀忠と離縁後「佐々加賀守一義」なる人物に嫁いだとの説もあり、子孫を残していたかもしれません。)
織田信雄の側室→継室:木造具政の娘
正室・雪姫の従姉妹にあたる女性です。
彼女の父・木造具政は兄・具教存命中から織田信雄に肩入れし、家老となっていましたから、そのころにはすでに側室になっていたのかもしれません。
彼女は雪姫存命中の天正十二年(1584)に、織田信良を産みました。その後、文禄元年(1592)の雪姫死後に、正室へと昇格したようです。
木造具政娘の産んだ信良は、異母兄秀雄・高雄らの死後、父信雄の後継者になります。
信良は娘・昌子(松孝院)をかつての異母姉の夫・秀忠の次男である駿河大納言徳川忠長の正室にするなど、織田家嫡流として暗然たる影響力を示します。
その家系は上野小幡藩主、また出羽高島藩主、出羽天童藩主として明治まで続くことになります。また信良の娘の一人は稲葉家に嫁ぎ、その系統は公家の勧修寺家、さらには天皇家へともつながりを持ちました。
織田信雄の側室:織田長利の娘
織田信雄は従姉妹にあたる織田長利の娘も側室にしていました。
彼女が子を産んだかは定かではないですが、彼女が信雄の側室だった縁により、長利の死後(長利は本能寺の変後、二条城にて信雄の長兄・信忠らとともに討ち死に)に長利の妻が信雄から年給を受けています。
織田信雄の側室:久保三右衛門の娘
信雄の五男で、大和国・宇陀松山藩主となった織田高長の母親については、一説では「久保三右衛門」なる人物の娘であると言われています。
詳細は不明ですが、大和国の久保氏などの出身の女性でしょうか?
織田信雄の側室:津田氏
信雄の六男・信為と七男・良雄を産んでいます。
津田氏娘の産んだ二人の男児は当初僧侶となっていたようですが、二人とも後に還俗しました。還俗したのちも、織田姓ではなく母方の津田姓を名乗ったといいます。
もしかしたら前述の織田長利の娘(織田長利は「津田氏」を名乗ったこともある)と同一人物かもしれません。
六男・信為の子孫は宇陀松山藩織田家(五兄・高長の系統)の家臣となりました。
織田信雄の側室:下野守信清の娘
佐々一義に嫁いだ娘は、前述の小姫の可能性もありますが、小姫ではない信雄の別の姫だという説も根強いです。
佐々一義に嫁いだ娘を産んだのは「下野守信清女」だと伝わっています。
織田信雄の側室:複数人
信雄には子を産んだ側室が、少なくとも6人ほどいたようです。
彼女たちの多くは名前はもちろん、出自についても伝わっていません。
