源氏将軍を断絶させた男・公暁を取り巻く人々

中世史(日本史)

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源氏の三代目将軍であった叔父・源実朝を暗殺した青年僧・公暁。

彼の凶行により、源頼朝以来の源氏将軍の家系はもとより、源頼信から続く河内源氏の直系も断絶することになります。(阿野全成の家系など傍系は続きますが……。)

公暁もまた長く生き延びることはできず、その後殺害されました。

さて、そんな公暁ですが、「実朝の兄・源頼家の子」ということは知られていても、父以外の、彼の周りを取り巻く人々などについてはいまいち知られていません。

ここでは、公暁の周りを取り巻く人々について調べてみました。

公暁の父は源頼家、公暁の母は足助(賀茂)重長娘・辻殿

金吾將軍室、〈号辻殿善哉公母也〉令落餝給戒師、莊嚴房阿闍梨、〈始若宮供僧後壽福寺長老〉

引用:『吾妻鏡』

公暁の母については諸説ありますが、『吾妻鏡』などによると、源頼家の室(正妻?)であった辻殿であると言われています。

母の辻殿は、母方から鎮西八郎・源為朝(頼朝の叔父)の血をひいていました。

正室の子であるならば、異母兄一幡を差し置いて後継ぎになった可能性も十分あったかと思われるのですが……。

なぜか父・頼家は公暁(幼名・善哉)ではなく、一幡を後継者に立てていました。(母・辻殿ではなく、一幡生母・若狭局こそが正室であったとする説もあります。)

しかし、父頼家の後継者になっていなかったからこそ、異母兄・一幡のように燃え盛る炎の中命を落とす……という事態にもならなかったのかもしれません。

母の辻殿は、夫頼家亡き後、頼家の後家として頼家の供養や祭祀などをとりもったようです。

辻殿に関する記録は、頼家死後およそ6年たった承元四年(1210)に出家した、というもの以外は『吾妻鏡』にはありません。

彼女が息子の凶行、そして横死の時点で存命だったかどうかも詳細不明です。

辻殿 源頼家を弔い続けた公暁の母
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公暁の異母兄には一幡

公暁の異母兄には、比企能員の娘・若狭局を母とする一幡がいました。

この一幡は、比企氏の庇護下で育てられていたようです。

しかし、源頼家、そして比企氏による北条氏排斥の動きを察知した北条義時、政子らによる、比企氏の粛清に巻き込まれ、その命を失っています。

ちなみに、公暁の母親は、辻殿とする説が有力ですが、一方で『尊卑分脈』などでは、一幡同様に若狭局所生だとする説もあります。

もしも公暁も若狭局所生であるならば、一幡と公暁は同母兄弟ということになります。

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公暁の兄弟たち

公暁には、一幡以外にも異母兄弟がいました。

頼家の側室であった一品房昌寛の娘(夫・頼家死後に三浦胤義と再婚)を母とする栄実、禅暁の二人です。(このうち禅暁については、公暁同様辻殿所生とする説もあります。)

栄実、禅暁の二人は、いずれも北条氏排斥の陰謀に巻き込まれて早世しています。

栄実は、公暁に先立って建保二年(1215)、もしくは承久元年(1219)頃に自害して果てました。

禅暁は公暁よりは長生きしたものの、公暁の死の翌年、承久二年(1221)に、公暁に加担したといういわれのない罪で、誅殺されています。

公暁の兄弟たち(頼家の息子たち)は、いずれも畳の上で死ぬことを許されず、非業の死を遂げたと言えるでしょう。

公暁の異母妹であった竹御所のみ、女子であったということもあって北条氏の粛清を逃れますが、彼女もまた子孫を残すことなく亡くなっています。

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公暁と三浦義村の関係は乳父と子

左金吾將軍家御息若君、〈善哉公〉依尼御臺所之仰、爲將軍家御猶子、始入御營中、御乳母夫、三浦平六兵衛尉義村、献御賜物等

引用:『吾妻鏡』

三浦義村は、公暁の乳父でした。(三浦義村の妻が、公暁の乳母でした。)

そのため、公暁の後見のような役目を果たしていたようで、公暁が実朝の猶子となった際には様々な準備をしています。

公暁のもとに、息子(四男?)三浦駒若丸(のちの三浦光村)を出仕させるなど、相当公暁との関係は深かったようです。

そのためか、実は公暁の伯父(公暁の母親が三浦義澄娘説)説まであるほどです。

この公暁との関係性ゆえに、三浦義村は実は公暁による実朝暗殺の黒幕だとかなんだとか言われたりもしますが、真実は闇の中。

公暁は実朝暗殺後、義村に、「自分が次の将軍だから準備して!」とまで使いを出していますが、義村はあっさりとそのことを北条義時に密告。公暁に追手がかかることとなります。

追手に追われながらも公暁は三浦義村の邸宅に向かいますが、義村邸宅の塀を乗り越えようとしたところで討ち取られてしまいました。

三浦義村の妻と子たち
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公暁と三浦駒若丸(三浦光村)

是義村息男、駒若丸、依列門弟云、

引用:『吾妻鏡』

三浦義村は、自身の息子駒若丸を公暁の門弟にしていました。

この駒若丸、義村の正室とされる土肥遠平娘(つまり公暁の乳母)の所生で、公暁の乳母子にもあたります。

ただ駒若丸は公暁による実朝暗殺の前には三浦家に連れ戻されていたようですね。

ちなみに創作物だと、よく公暁の寵愛を受けていたりします。

当時の寺院で名前に「丸」がついているのはいわゆる稚児だったりしますから、ありえなくもないかも……。

駒若丸は元久元年(1205)生まれですから、公暁よりおよそ5歳年下、ローティーンだったと思われます。

公暁死後、三浦家で武士として修練を重ねた駒若丸は元服し、光村と名乗ります。

このとき、北条得宗家と対立していた名越光時(北条義時の孫、名越朝時の嫡男)を烏帽子親としたことで、反得宗家の流れに身を投じ始めます。

その後光村は、四代目将軍・九条頼経の側近になりました。

しかし将軍頼経が廃立されたのち、三浦氏と北条氏との関係が急速に悪化します。烏帽子親の名越光時もまた、この流れで失脚します。

光村は同母兄泰村、そして三浦一族ともども、宝治合戦にて果てることとなります。かつての主君、公暁の死からおよそ28年後のことでした。

公暁と源実朝の関係は?

こ左衛門督の子にて公暁といふ大とこあり。おやのうたれにしことをいかでかやすき心あらむ。いかならん時かとのみ思ひわたるに。

引用:『増鏡』

公暁は、源実朝の甥であると同時に、その猶子でありました。実子のいない実朝の子供として扱われていたのですね。

ただ「猶子」というのは、多くの場合「養子」とは異なり、親となった人物の財産や地位を相続することはできません。

実際、実朝や北条政子らは生前から、後鳥羽上皇の皇子を実朝の次代の将軍として据えようとしていたようです。(実朝の正室の甥にあたる皇子などが候補に上がっていました。)

また猶子と言っても、公暁はもっぱら京、もしくは鶴岡八幡宮の僧房などで生活しており、同居することもありませんでした。

公暁と実朝は、甥と叔父、猶子と親と言っても、疎遠な関係ではあったでしょう。

もしもこの二人の間に円滑なコミュニケーションが為されていたのならば、叔父を「親の仇」と言って討つような、あのような悲劇は起きなかったと思われます。

公暁と北条義時の関係は?

公暁は、北条義時の大甥(姉・政子の孫)にあたります。公暁からすると、北条義時は大叔父にあたるわけですね。

血縁関係としては少し遠くなることもあり、公暁は三浦氏ほどは北条義時には親しみを持っていなさそうな印象を受けます。

北条義時は、なぜか実朝暗殺時に奇跡的にその場にいなかったため、難を逃れています。

しかしもしもその場にいたのならば、将軍実朝の後見的立場であった義時もまた誅殺されていた可能性が高いでしょう。

実朝死後、三浦義村の密告を受けた義時は、何のためらいもなく公暁に追手を差し向けます。その結果、公暁はその命を終えることとなりました。

公暁は京都で道元と出会っていた?

公暁は鶴岡八幡宮で出家した後、上洛し園城寺の門弟となっています。

そこでは、高僧・公胤に師事、さらに叔父・貞暁(頼朝の庶子)の弟子となりました。

公暁が園城寺にいたのは、建暦元年(1211)から建保五年(1217)までのおよそ5年半ほどでした。

この同時期に、実は園城寺にはもう一人有名人が入っています。

公暁と同じく公胤に師事したのが、のちの曹洞宗開祖・道元でした。(ちなみに道元は、源頼朝によって討たれた木曽義仲の正室・伊子が再婚して生まれた子だとも言いますから、公暁とも謎の因縁があったりします。)

道元は、建保三年(1215)から建保五年(1217)頃まで、公胤に師事したといいます。道

元や公暁自身が、お互いのことに言及したという記録はないようですが、もしかしたら同じ師を持つ者同士、言葉を交わすこともあったかもしれません。

道元は南宋へ留学後は、京、越前を中心に活動しましたが、その晩年、宝治年間(1247~1249頃)に半年ほど鎌倉に下っています。この時の執権は北条義時のひ孫・北条時頼でした。

短い滞在期間でしたが、この間にもしかしたら、鎌倉で非業の死を遂げたかつての同僚に思いをはせることもあったかもしれませんね。

公暁に妻・子・子孫はいるのか?

鶴岳別當參籠宮寺。更不被退出。被致數ケ祈請。都以無除髪之儀。人恠之。

引用:『吾妻鏡』

公暁は僧侶であったということもあり、妻・子・子孫については公にはいません。

ただ、公暁は叔父実朝を討つ直前には、「髪も伸ばしっぱなし」と言ったありさまで、まるで僧侶らしくないようなふるまいだったようです。

また当時の僧侶と言えば、色事とは無縁ではなく、寺院においては稚児を寵愛していました。また寺院の外に、妻を囲う者も珍しくなかったようです。

若かった公暁に秘密の妻や子がいたとしてもまるっきりおかしくはないでしょう。ただ、もしも妻や子がいたとしても、公暁の凶行ゆえに、名乗り出ることはありえないことだったと思われます。

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