八重姫はどんな人だったのか?その生い立ちと悲しい最期

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

源頼朝の妻として有名なのは北条政子ですが、実は頼朝は政子と結婚するよりも前に、別の女性と結婚していたという伝承があります。(『吾妻鏡』などの鎌倉幕府・北条家公式の記録には特に残されていないのですが……)

頼朝最初の結婚相手として伝わるのが、伊東祐親の娘、八重姫。北条時政の妻は伊藤祐親自身の娘とも、伊東祐親の姉妹とも伝わりますので、実は八重姫は北条義時、北条政子とも親戚関係にあったりします。

ただあくまでも伝承の人物で、実在すらあやしい八重姫ですが、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、あの新垣結衣さんが演じるということでも大注目されていますね。八重姫がどのような人物だと伝わるのか、八重姫について調べてみました。

八重姫はどんな人?

八重姫、というのはあくまでも伝承上の人物で、本当にいたかも怪しい女性ではあります。伝承では、伊東祐親の四女、もしくは三女と言われていますね。当時の伊豆国では、伊東氏はかなりの勢力を持っていたため、八重姫も頼朝と結ばれなければ、伊豆国近縁の豪族と結ばれていたのかもしれません。

八重姫の顔は美人?

八重姫の容姿については、実は伝承が残っていません。後述の「入水した」伝承や、「子供を殺された」という伝承など、悲劇的な運命からすると、なんとなく美人のような感じはしますよね。

また、頼朝が、平家方の監視役の娘という、いわば敵対するような立ち位置にある女性とわざわざ結婚したということからしても、それほどの美女だった!と言いたくなるような気はします。

ただあくまでも八重姫の顔が美人だったかは分かりません。

八重姫は入水したという説がある

一子千鶴丸を父・伊東祐親の差し金で殺された後、八重姫がどのような運命をたどったのかは様々な説があります。多くの説では、頼朝と離別させられた後、別の家に無理やり嫁がされた……と伝わりますが、わが子の死を悲しんだ挙句に入水したという説もあります。

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伊豆の国市の寺院・真珠院は「伊東八重姫入水の地」とも伝わります。

八重姫は子供を殺された後、しばらく父のもとで過ごしますが、頼朝恋しさに侍女たちとともに館を抜け出します。しかし、すでに頼朝は北条政子と結ばれた後で、北条氏の庇護下にあったため会うことかなわず、「真珠ヶ淵」に入水したということです。

真珠ヶ淵は、狩野川と言う川のただなかにあった淵のことですが、現在は当時とはかなり川の姿を変えてしまい、「古川」という川の一部になったそうです。

八重姫と北条義時

八重姫は伊東祐親の三女、もしくは四女と言われています。伊東祐親にはほかにも何人も娘がおり、娘の一人は北条時政に嫁いで北条義時の母親になったとも言われています。

もしもこの説が正しいのなら、八重姫と北条義時は叔母と甥という関係になるのですね。北条時政室(北条義時母)については、伊東祐親の娘ではなく姉妹(伊東祐家の娘)という説もありますので、そうだとしたらいとこ同士ということになりますね。

どちらにせよ、八重姫と北条義時は血縁関係にあったことは間違いないでしょう。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義時初恋の人が八重姫のようですから、義時と八重姫の血縁関係に触れられることもあるかもしれませんね。

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八重姫と江間(江馬?)小四郎(小次郎)

八重姫は、頼朝と別れさせられた後に江間小四郎(江馬、もしくは小次郎とも)なる人物に嫁いだと言われています。(嫁ぎ先には、他に相馬氏【千葉氏】、北条氏という説もあるようです。)

江間小四郎、というのは実は北条義時の通称とかなり近しい名前(北条義時は「江間四郎」もしくはそのまんま「江間小四郎」と名乗っていたようです)なのですが……。

頼朝の動向や北条政子の長女大姫の出産時期などから考えると、八重姫の嫁いだ江間小四郎は北条義時だとすると、あまりに若すぎる(義時が10代前半のころ)のため、おそらく北条義時ではない「江間小四郎」に嫁いだのだろうと言われています。

江間、は伊豆国の地名ですから、おそらく「江間小四郎」なる人物は江間に所領を持っていた在地の武士でしょう。

伊東祐親が娘を嫁がせた、ということから考えるに、伊東祐親ともかなり近しい関係だったのでしょう。『曽我物語』によると、江間小四郎は伊東祐親の次男、祐清に従って平家方として従軍、加賀国で討たれたそうです。

『曽我物語』異本によると、江間の小四郎の死亡後に、北条時政が恩賞として江間の地を得たという説があるとか。また、江間小四郎の子供を北条義時が育てたという伝承も残されているそうです。

頼朝と別れた後、八重姫は江間小四郎なる伊豆国の武士と結婚し、子供を産むも、結局夫と夫の所領を失ったのかもしれません。頼朝はかつての妻のそのような姿を、どのように思ったのでしょうか。

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