孕石元泰 家康と因縁があったかも?しれない駿河の武将

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

家康と言えば、若い頃は今川家臣として苦労した……というイメージが付きまとっています。

その中でも「家康をいじめていて、後で手痛いしっぺ返しを食らった」という人物として、今川氏、後に武田氏に仕えた「孕石元泰」という武将がいます。

この孕石元泰、実際どのような人物なのでしょうか。気になったので調べてみました。

孕石元泰の名前の読み方

孕石元泰の名前は、「はらみいし もとやす」と読むと考えられています。

苗字の「孕石」は遠江国佐野郡孕石村にちなむもので、藤原南家出身の武士・原小六忠高が孕石の所領を与えられたことから始まるようです。

元泰の父・光尚は今川義元の家臣として名高く、息子の元泰もまた、「遠江三十六人衆」に数えられるなど、遠江国の有力国人でした。

元泰の名前は、主君今川義元からの偏諱だと考えられています。

孕石元泰と今川氏

孕石元泰は、祖父・孕石行重の代より今川氏に仕えていたと伝わります。

孕石元泰は天文21年(1552年)より今川義元の家臣として名前が出てくるようになっています。

おそらく、父・光尚の死後、本格的に今川義元の家臣として活動を始めたのでしょう。

義元の死後も当初は今川家に仕え続け、義元子息の氏真の家臣にもなっていました。

孕石元泰と徳川家康~三河物語・改正三河後風土記より~

忠世家人三倉忠右衛門は城兵孕石主水を生捕たり 主水はもと今川家人にて神君は幼稚にて今川が方にましましける時も種々不礼をふるまひ三河の倅にあき果はりと罵り其後武田へ降参してつねに御敵をなしければ今度生捕と成りしに 孕石は昔より我に厭果たりと申し者なればわれに用なき者とて誅せらる

引用:『改正三河後風土記』

孕石元泰と徳川家康の間には、家康が今川家の家臣だった時代に軋轢があったことが後世まで伝わっています。

そのことに関しては、『三河物語』や『改正三河後風土記』、また家康の親族である松平家忠の『家忠日記』などに記録が残されています。

どちらかというと家康(江戸幕府)のプロパガンダとしての側面が強い『三河物語』などでは、家康が何も罪もないのにいじめられていた!という風に語られているようです。

しかし、孕石元泰と家康の軋轢には、家康にも非があったようですね。

なんでも今川氏家臣時代の家康は、駿府で孕石元泰の屋敷の隣に住んでいたのだそうです。

その時、家康は鷹狩にはまっていたのですが、家康の鷹がたびたび孕石元泰の屋敷にお邪魔して、時にはフンや獣の死骸などを落としていました。

そのことで孕石元泰がたびたび怒っていた……というのが真実なようです。戦国時代にも隣人トラブルってあったんですね……。

家康は確かに人質でもありましたが、実際には今川氏一門の関口氏の娘(築山殿、瀬名姫。義元の姪とも。)と結婚するなど厚遇されていました。

そんな家康を、たとえ今川氏の有力武将と言え、特に理由もなくいじめるわけもないですよね。

孕石元泰と武田氏

今川義元の死後、氏真が跡を継ぎますが、これを好機と見たのか、同盟相手(甲相駿三国同盟を結んでいた)である武田信玄が駿河へ攻め上ってきました。

氏真は駿府から逃走し、武田氏が駿河の盟主となります。

孕石元泰はこの時、祖父以来の主君・今川家を見限り、武田氏につきました。

駿府を離れ、遠国へ向かう主君よりも、父祖代々の土地をとったのでしょう。

それは戦国時代としては決して珍しいことではなく、元泰同様にこの時に今川氏から離反し、武田氏に寝返った者も少なくありませんでした。

彼は武田氏家臣として、積極的に駿河侵攻の先鋒を務め、信玄から直々に感状を得るなど活躍します。

駿河平定後は、江尻城代・山県昌景の配下につき、のちには彼自身が江尻城代となります。

勝頼への代替わり後も、元泰は武田氏家臣として活動しました。

天正七年(1579)、彼は武田方の武将として高天神城防衛の任につきました。

高天神城は兵糧攻めにあいながらもなんとか持ちこたえますが、翌天正八年に落城しました。

この時に総大将で、今川氏時代からの同僚であった岡部元信らは討ち死にします。

孕石元泰は逃げようとしましたが徳川方の兵によって生け捕りになり、その後間を置かずに切腹させられることとなります。

孕石元泰のちょっといい話?孕石元泰の切腹と日蓮宗

伝承によれば、孕石元泰は切腹の際、南面して切腹しようとしたといいます。

切腹というのにはいろいろ作法があるのですが、通常ならば北向き、もしくは西向きでの切腹が主でした。

当然ながら徳川方の武将も「なぜ南を向いて切腹するのか?作法を知らないのか?」と嘲りました。

孕石元泰はその時、至極落ち着いた様子で法華経の一説「十方仏土中 唯有一乗法 除仏方便説」を引用し、切腹の向きを気にするなど意味がないということを反論したうえで、従容と切腹をしたと伝わります。

このように死を前にして、法華経の文句が出てくるということは、元泰は熱心な日蓮宗徒であったと思われます。

家康に文句を言うイヤミな印象とは裏腹に、信仰心はかなり強かったのでしょうね。

元泰の墓は、同じようにして高天神城にて戦った元今川家臣・岡部元信らとともに、駿河の日蓮宗寺院・本覚寺にあります。

もしかしたら、元泰生前からの付き合いにより、ここが彼の墓所となったのかもしれません。

家康は本当に孕石元泰を恨んでいたのか?

孕石元泰が切腹させられたのは家康が過去の仕打ちを恨んでいたから、というのが通説になっていますが、実際どうなのでしょう?

その根拠として、よく高天神城の武将で切腹させられたのは孕石元泰のみ……ということが上げられますが、実際には違うようです。

諸説ありますが、やはり高天神城の守護をしていた武将・栗田寛久(善光寺別当で、武田家臣の娘を妻としていた)もまた、家康の命によって切腹したといいます。

もしも事実であるならば、孕石元泰以外にも切腹させられた武将はいたということになりますね。

高天神城の戦いはかなりの激戦で、多くの武田方武将が討ち死にしています。(高天神城防衛の総大将で、やはり元今川氏家臣の岡部元信など。)

高天神城の武田方の城兵たちに何らかのペナルティを与えようにも、生き残った城兵がそもそもほとんどいなかったのです。

孕石元泰の切腹は実は家康故人の遺恨というよりも、高天神城の城兵はすべて根絶やしにする!という指針の元執り行われたのかもしれません。(信長が、高天神城の城兵の降伏を拒否する旨の文書を家康に送っています。)

元泰は切腹していますが、罪人としての斬首ではなく武士としてまだ対面の保てる切腹が許されている辺りは、むしろ家康の思いやりかもしれませんね。

実際に家康がどこまで孕石元泰のことを恨んでいたのか?というのもよく分からないように思われます。

孕石元康の子孫

孕石元泰の息子・孕石元成は父同様に、今川氏、そして武田氏に仕えます。

武田氏滅亡後浪人しますが、小田原征伐の際に豊臣方として奮戦、後に豊臣政権の武将である山内一豊の家臣として召し抱えられます。(この時同じように戦った仲間には、後に民主主義の象徴ともなった政治家・板垣退助の祖先である乾正信がいました。)

後に山内氏が土佐藩主となると、孕石元成も土佐藩家老となりました。

彼は江戸時代の寛永年間まで生きました。孕石元成には息子がいなかったようで、孕石氏の名跡は、養子によって受け継がれることとなります。

元成の義理の孫・孕石頼母元政は土佐藩家老・野中兼山の政敵としても名を残しています。

野中兼山の娘を題材とした大原富枝の小説『婉という女』にも「孕石頼母」の名前で登場していますね。

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