源頼家側室、比企能員娘・若狭局について

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

『鎌倉殿の13人』にて、25話から登場するのが、山谷花純さん演じる源頼家の側室・若狭局です。

若狭局は頼家の嫡子・一幡を産みますが、彼女のたどる運命は……。

過酷な運命をたどる若狭局ですが、実はあまり多くのことが分かっていなかったりします。

この記事では、若狭局がどのような女性なのか、限られた史料からお伝えしていこうと思います。

若狭局の名前の意味とは?

今朝廷尉能員、以息女〈將軍家妾、若公母儀也元號若狭局〉訴申北條殿偏可追討由也凡家督外、

引用:『吾妻鏡』

若狭局、という名前自体は、本名ではなくいわゆる女房名で、称号のようなものです。

北条義時の側室、阿波局や義時の妹で阿野全成の妻・阿波局のように、国名の若狭を冠して呼ばれていたのでしょう。

なぜ比企能員の娘が若狭局と呼ばれたのかですが、もしかしたら比企朝宗(父・能員の義弟と思われる)が北陸道勧農使(鎌倉殿勧農使)に就いたことから、その縁で北陸道の若狭国の国名を女房名にしたのかもしれませんね。

ちなみに、比企能員娘で一幡の母にあたる女性は「若狭局」と呼ばれていますが、実は彼女は後に改名したようです。しかしその改名後の名前については分かっていません。

後世、北条政村の娘が、比企能員娘・讃岐局なる女性の怨霊に苦しんでいることが『吾妻鏡』に描写されていますが、もしかしたら若狭局は讃岐局に改名したのかもしれませんね。

あるいは特に関係なしに、女官名として「若狭局」がよく使われていたのかもしれません。

「若狭局」と呼ばれた女性は複数人いる!平政子とは別人

さて、若狭局という名前は女房名ですから、実は同時代はもちろん、その後、その前の時代においても、「若狭局」なる女性は多くいます。

若狭局、と名乗った女性で有名なのは、平家政権の一員であった「平政子」ではないでしょうか。(北条政子ともかぶる名前ですね。)

平政子は、一説には後白河院寵姫・丹後局の母親とも言われる女性で、清盛の叔母(平正盛娘、平忠盛妹)にあたる女性です。

高倉天皇の生母となった建春門院・平滋子の乳母であり、滋子所生の高倉天皇の乳母的立場にもあり、平家政権下で強い権勢を誇った女官だったといいます。

当然ながら、比企能員娘の若狭局よりもかなり年上ですから、もちろん別人です。とはいえど、「若狭局」と名乗った女性の先人に、女官として栄華を誇った人物がいるというのは少し面白い気がしますね。

若狭局の父は比企能員、母は?

ヒキハ其郡ニ父ノ党トテ。ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ。一万御前ガ母ヲバマウケタル也。ソノ行時ハ又児玉党ヲ婿ニシタルナリ。

引用:『愚管抄』

若狭局の父は比企能員でほぼほぼ間違いありませんが、実は母親については不明です。

比企能員の正室であり、頼家の乳母だったと思われる渋河兼忠の娘が母親では?とも言われています。

しかし、同時代の史料の一つ『愚管抄』では、「ミセヤノ太夫行時」という比企氏の郎党で、かつ児玉党の縁者であった一族の娘が若狭局の母親だったともいいます。

『愚管抄』の著者・慈円は京の人間ですから、どこまで鎌倉の情勢に強かったのかはよく分かりませんが、兄の兼実は頼朝と一時深い関係にありましたし、同時代史料ではありますから、それなりに信ぴょう性は高そうですね。

もしも渋河兼忠娘の所生でなかったとしても、側室がいて当たり前の時代のことですから、正室である兼忠娘が実子同様に扱っていたかと思います。

若狭局は、兼忠娘とともに、幼いころから幕府に出仕していたのかもしれませんね。

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若狭局は源頼家の正室?側室?

頼家の乳母子であった若狭局は、いつのころからか頼家の寵愛を受け、そして頼家17歳の時に、頼家の嫡子となる男子・一幡を儲けます。

さて、若狭局は、一般的には『吾妻鏡』における「将軍家妾」の記述から、「源頼家の側室」と扱われることが多いですが、実は側室だったのではなく正室では?とする説もあります。

というのも、若狭局所生の一幡が、生まれてすぐに頼家の嫡子として扱われていたこと。

普通嫡子というのは、正室の子でありますから、側室所生の子が長男だったといえ、生まれてすぐに嫡子として扱われることはまずありません。

頼家の正室だったのでは?と言われる頼家の妻で、足助重長の娘・辻殿所生とされる公暁が生まれてもなお、一幡が嫡子とされていたのはおかしいことなんですね。

そのことから、頼家の正室は若狭局だったのでは?とも言われるようです。

若狭局の父、比企能員は、頼朝の乳母である比企尼の養子ですし、頼家の乳母父でもありますから、正室の父となっても確かにおかしくはありません。

ただ、頼家の妻の一人・辻殿は母方から源氏の血(頼朝の叔父・鎮西八郎こと源為朝の娘が辻殿の母)を引いていることを考えると、若狭局に比べると血筋の良い女性ということが出来ます。

また、頼家の死後に北条政子とともに頼家の供養に励んでいる様子などを見ると、確かに辻殿が正室であってもおかしくはなさそうです。

若狭局が正室だったのか、それとも側室だったのか?という問題は永久に判明することがなさそうですね。

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若狭局の死因は?

今日於小御所跡。大輔房源性〔鞠足〕欲奉拾故一幡君遺骨之處。所燒之死骸。若干相交而無所求。而御乳母云。最後令着染付小袖給。其文菊枝也云々。或死骸。右脇下小袖僅一寸餘焦殘。菊文詳也。仍以之知之奉拾了。

引用:『吾妻鏡』

さて、若狭局は比企能員の変の起こった建仁三年(1203)に、息子の一幡ともども殺されたと伝わります。

『吾妻鏡』によると、一幡は焼け死に、その遺骸については判別がつかなかったため、乳母の証言をもとに着物の柄で判別したといいます。

母親である若狭局について、詳しいことは書かれていませんが、おそらく若狭局もまた燃え盛る炎の中で命を落としたのでしょう。

『吾妻鏡』では、能員の妻妾、そして2歳の末子は命を許されたとありますが、娘については許された、と記載がありませんから、娘である若狭局は存命だったと思えません。

子ノ一万御前ハアル人ヤリテウタントシケレバ。母イダキテ小門ヨリ出逃ニケリ。…(中略)…サテソノ年ノ十一月三日。終ニ一万若ヲバ義時トリテヲキテ。藤馬ト云郎等ニサシコロサセテウヅミテケリ。

引用:『愚管抄』

『愚管抄』によると、若狭局は一幡を連れて燃え盛る比企氏の館を落ち延びたそうですが、そのおよそ2か月後に、北条義時の郎党によって発見され、一幡は刺殺されたと伝わります。

母の若狭局がどうなったのかは、やはり『愚管抄』では、描かれていませんが、一幡亡きあとの彼女の運命など悲惨以外の何物でもなかったでしょう。彼女もまた、一幡の後を追ったと思われます。

余談ながらに、若狭局は頼家唯一の娘であった竹御所の母とも伝わります。

竹御所は北条氏に敵対せず、頼家の子の中で唯一殺されることなく生き延びましたが、子孫を残すことはできませんでした。

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