本多忠真の妻と子と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

まだ赤ん坊の時の父親を亡くした徳川四天王の一人・本多忠勝は、叔父の本多忠真の庇護下で本多家の当主として成長します。

甥の忠勝を優しくも厳しく見守った忠真ですが、三方ヶ原にてこの叔父は徳川軍の殿を務め、壮絶な討ち死にを遂げることとなります。

若き徳川四天王を導いた本多忠真、そんな忠真の妻、そして子、子孫たちはどのような感じだったのでしょうか。

気になったので調べてみました。

本多忠真の妻:不明

本多忠真には後述するように子供がいたみたいですから、当然ながら妻もいたと思われるのですが、本多忠真の妻に関する記録は残っていませんでした。

兄の忠高(忠勝の父)は、松平氏家臣だった植村氏義の娘と結婚し、忠勝を儲けています。

おそらくではありますが、兄同様に忠真も松平氏家臣の娘と結婚したのではないかと思われますが……。

本多忠真の嫡男:菊丸

『寛政重修諸家譜』には載っていないのですが、本多忠真には息子・菊丸がいたと伝わります。

忠勝系本多家宗家の第17代目の本多子爵・本多忠敬が明治二十四年(1891)に立てた石碑などに、そのことが描かれているようですね。

忠真の嫡男であった菊丸は三方ヶ原で父とともに出陣しましたが、徳川軍は敗走することとなります。

殿を務めた父の最後の言いつけを守り、菊丸はなんとか家康を援護しつつ無事に浜松城まで落ち延びることが出来たそうです。

彼は三方ヶ原で果てた父の遺骸を弔った後、出家したといいます。

父親の死に、武士の命の無常を感じたのでしょうか。

菊丸は東国にて布教活動で流浪生活を送った後、浜松の倉松村に寿福寺を建立したといいます。

出家していたことを考えると、おそらく菊丸に子孫はいなかったのではないでしょうか?

本多忠真の娘:阿佐美金七郎の妻

女子 家臣阿佐美金七郎某が妻

引用:『寛政重修諸家譜』

『寛政重修諸家譜』では、本多忠真の子として出てくるのは娘一人です。

彼女は、阿佐美金七郎なる武士に嫁いだといいます。

彼女がいつ頃生まれたのか、名前は何なのか、また彼女に子孫がいたのかもよく分かっていません。

阿佐美氏と言えば、かつて関東において名をはせた武蔵七党・児玉党の一族ですが……。

この時代には松平氏の配下になっていたのでしょうかね。

阿佐美金七郎については 桶狭間の前哨戦・丸根砦攻めに参加していたことが分かっているほか、『松平記』の中で、三河一向一揆に際して一揆側に付き、土呂本宗寺にて戦った武士として名前が出てきています。

ただそれ以後の事績はイマイチ不明……。

もしかしたら、三河一向一揆で戦死、もしくは離反したまま別家に仕えたor帰農した可能性も捨てきれず。

一応上記『寛政重修諸家譜』では「家臣」とありますし、同族と思われる阿佐美清兵衛は本多家の家臣となっているので、金七郎も本多家の家臣となっていたのかもしれませんね。

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