竹御所官女(平時家娘・上総広常孫・大江親広室)について

中世史(日本史)

鎌倉幕府が出来上がるまでに、多くの血が流されていきました。はじめは平氏、そして鎌倉幕府の多くの御家人たち、承久の乱での公家など。

多くの血が流される中で、勝ち馬に乗り続けた一族は少ないと言っていいでしょう。

今回紹介したいのは、鎌倉時代初期に生きたある女性の話です。

父は平氏、母は頼朝に謀殺された武士、夫は承久の乱で没落-

なんというか巡り合わせの悪い彼女は、名前すら現代に伝わっていませんが、それでも必死で生きたであろうことがわずかな史実からうかがえます。

「竹御所官女」の呼び名で知られるこの女性について調べてみました。

父は平時家(平時忠次男)、母(義母?)は上総(上総介)広常の次女

後世「竹御所官女」、つまり源頼朝の孫娘・竹御所に仕えた女性だという意味の名前で呼ばれる女性は、おそらく鎌倉の地で生まれたと思われます。

彼女の生まれた年は分かりません。

ただ平時家とその正室である上総広常次女の結婚が治承三年(1179)~寿永元年(1182)の間であること、父時家の死が建久四年(1193)であることを考えるならば、1180年代の可能性が高いように思われます。

竹御所官女は上総広常次女の所生であるかは分かりませんが、もしも側室所生であったとしても、平時家唯一の娘として、上総広常次女の庇護下にあった可能性は高いでしょう。

ただ、彼女の幼少期にはすでに母方の祖父・上総広常は源頼朝の意向で謀殺されて、伯父も自害していました。

さらに、父の平時家は、頼朝に重用されていたとはいえ平家の一門。

ある意味鎌倉の負け組のような生まれだった……と言えるのかもしれません。

しかも、彼女が大人になる前に、父の平時家は亡くなってしまいます。

母方の一族も、父方の一族も頼れない、そんな状況に直面した彼女ですが、なんとか上流階級に食い込むことが出来ました。

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竹御所と竹御所官女

平時家の娘は、いつのころからか分かりませんが、源頼朝の孫娘である竹御所という女性に仕えるようになりました。

竹御所は二代将軍・源頼家唯一の娘です。竹御所は建仁2年(1202)生まれで、平時家娘からすると10歳以上年下の少女でした。

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平時家の娘の祖父・上総広常は竹御所の祖父・源頼朝によって死に追いやられてしまったわけですが、そのことが彼女の頭によぎっていたのかどうかは分かりません。

何はともあれ、このころには結婚適齢期に差し掛かっていたであろう竹御所官女は、頼朝唯一の孫娘の側に仕えます。

ちなみに、竹御所に平時家の娘がいつごろから仕え始めたのかは分かりません。

竹御所が生まれてすぐに仕え始めていたとしたら、平時家の娘は竹御所の母と思われる若狭局と比企一族の滅亡をその目にすることになるのですが……。

竹御所官女の働きっぷりがどのようなものであったかも伝わりませんが、彼女はおそらく竹御所のそばにいたことで、ある男と縁を得ることになります。

竹御所の父・頼家の従姉妹にあたり、竹御所とは同年代ということもあって親しかったであろう北条義時の娘・竹殿。

竹御所官女が結ばれたのは、その竹殿の夫であった大江親広でした。

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竹御所官女と夫・大江親広

竹御所官女と大江親広が結ばれたのがいつごろかはよく分かりません。

大江親広は承久の乱で失脚後、出羽国の寒河江に下っていますから、おそらくそれよりは前のことではないか?と思われます。

大江親広は幕府創設の功臣・大江広元の嫡男であるだけでなく、側室!(本当は正室ではないかとも思われるのですが)に当時の一大権力者・北条義時の娘竹殿を迎えるなど、当時の鎌倉でもかなり前途を嘱望された若武者でした。

竹御所官女はどうやって大江親広に出会ったのでしょう。

竹御所のもとに面会に来た親広を、竹御所に取次などをしているときにでも親しくなったのかもしれません。

竹御所官女は大江親広との間に、大江親広の三男となる大江広時を産みました。

大江親広には当時すでに別の女性との間に2人の男子がいましたが、それでも有力者の三男となれば、大江広時の前途も揚々……だったはずでした。

竹御所官女のその後

1221年、承久の乱がおこります。その時、なぜか大江親広は鎌倉ではなく、朝廷に味方しました。

そして……結果は朝廷の惨敗で終わります。

親広はなんとか死を免れたものの、代償は大きいものでした。

大江一族の惣領の座は弟の長井時広へ移り、義時の娘である竹殿とも離縁となります。

親広本人はこのころ30代くらいだったとおもわれますが、約20年に及ぶ余生を、京からも鎌倉からも遠く離れた出羽国寒河江荘にて過ごすことになります。

竹御所官女はおそらく、親広にはついていかず、まだ乳飲み子であっただろう広時とともに、慣れ親しんだ鎌倉で生活を送ったものと思われます。

親広の長男で彼女の義理の息子にあたる大江佐房は幕府側として功績をあげており、異母弟である広時のことも気にかけてくれていたのが、彼女にとって唯一の救いでした。

ちなみにこの義理の息子・大江佐房はのちに竹御所とその夫・四代将軍藤原頼経の側近になっています。もしかしたら竹御所官女が竹御所との橋渡しをしていたりした……かも?

承久の乱の約10年後、1232年、竹御所は死産の果てに産褥死を遂げます。竹御所官女がその時にも竹御所のそばにいたかどうかは分かりません。

竹御所官女の息子・大江広時が世に出るのはその後の嘉禎4年(1238年)のことでした。

彼は異母兄大江佐房のサポートの元、順調に昇進を果たしていきます。

北条一族の金沢実泰の娘と結婚するなど縁談にも恵まれ、のちのち祖父大江広元以来の領地である寒河江荘を相続し、寒河江氏の祖となりました。

竹御所官女がどこまで息子の成長を見届けたのかは分かりません。

ただおそらくではありますが、弘長2年(1262)の息子広時の死よりは前に、亡くなっているのではないでしょうか。

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