三浦義村の妻と子たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、山本耕史さんが演じることでも話題になっている相模三浦氏の三浦義村。

「鎌倉殿の13人」であった父の三浦義澄の跡を継いだ後、北条義時と並び立ちうる幕府の権力者として、陰に日向に暗躍をします。

そんな三浦義村の妻と子について調べてみました。

正室?継室?:土肥遠平の娘

三浦義村の妻として一番に知られているのが、土肥遠平の娘です。

土肥遠平の娘の母親は分かっていませんが、もしも土肥遠平の正室である伊東祐親四女・万劫御前(工藤祐経前室でもあった)であるならば、義村は従姉妹(義村の母は伊東祐親の次女)と結婚したことになります。

土肥遠平の娘は、三浦義村との間に嫡男・三浦泰村、四男・三浦光村(幼名駒若丸、公卿の門弟だった)などの子を産んだと伝えられています。

彼女の所生である三浦泰村、三浦光村両名とも、宝治合戦にてあまたの三浦一族ともども自害し果てました。

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正室?側室?:一条忠頼の娘

三浦義村の妻には、甲斐源氏(甲斐武田氏)の一条忠頼の娘もいたのでは?と言われています。

父の一条忠頼は甲斐源氏武田氏の武田信義の嫡男でしたが、頼朝の不興を買ってしまったようで、平家征伐中の元暦元年(1184)に、頼朝の命によって鎌倉で誅殺されています。

いわば失脚した人物の娘をわざわざめとるというのはどこか不自然ですから、もしも結婚していたのなら、元暦元年以前の結婚ではないでしょうか。

一条忠頼に対して、土肥遠平は生前失脚していませんから、義村の正室にはやはり土肥遠平の娘が政略関係的にもふさわしいような気がします。

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正室?継室?:河越重時の娘

頼朝の乳母・比企尼のひ孫娘にあたります。(比企尼の次女・河越尼の息子の河越重時の娘にあたるため。)

『系図纂要』によると、河越重時の娘が三浦義村の妻であったとの記載があるそうです。

正室?継室?:公暁の乳母

左金吾將軍家御息若君、〈善哉公〉依尼御臺所之仰、爲將軍家御猶子、始入御營中、御乳母夫、三浦平六兵衛尉義村、献御賜物等

引用:『吾妻鏡』

おそらく上記妻たち(土肥遠平の娘、一条忠頼の娘、河越重時の娘)の誰かが、二代将軍頼家の次男・公暁の乳母だったと考えられます。

息子駒若丸(三浦光村)が公暁の門弟だったということを考えると、やはり土肥遠平の娘が一番可能性が高いでしょうか?

公暁はこの縁もあり、将軍実朝暗殺後義村を頼ろうとしますが、義村はこのことを北条氏に密告、公暁は最終的に討ち取られてしまいました。

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側室?:三浦朝村の母

三浦義村の嫡男は三浦泰村ですが、義村の長男は泰村ではなく、三浦朝村でした。

長男でありながら嫡男になれなかった、ということを考えると、三浦朝村の母は義村の側室であった可能性もありそうです。(ただ「朝村」という名前は、将軍(源頼朝もしくは源実朝)からの偏諱の可能性もあるので、当初は嫡男だった可能性もありそうですが……。)

いずれにせよ、朝村は泰村の母(土肥遠平の娘)所生でないことは確かでしょう。

もしも土肥遠平の娘が継室なら、前妻(正室、例えば一条忠頼娘とか?)の子だったのかもしれません。

側室:不明

義村には多くの子たちがいました。彼らの多くは生母が不詳ですが、到底1人の女性が産んだとは考えらえません。それらのことから考えて、おそらく義村には何人か側室がいたと考えられます。

義村の側室については父の名前も全く分かりませんので、ここでは詳細不明といたします。

三浦義村の子たち

三浦義村の息子たちの多くは、宝治合戦で死に絶えることになります。また、娘婿たちも、宝治合戦で散りました。ここでは三浦義村の子供たちについて紹介していきます。

三浦義村の長男:三浦朝村

三浦義村の長男。別称は小太郎。

庶長子である可能性が高いですが、「朝村」の名前は将軍(源頼朝、実朝のいずれか。生年等を考えるならば実朝が妥当か?)から諱をもらった可能性が高いので、当初は嫡男だった可能性もあります。

朝村は宝治合戦の死者に名前がないので、宝治合戦前に亡くなっていた可能性もありそうです。

朝村の子である三浦氏村、三浦(河津)朝氏、三浦員村、そして朝村の孫である三浦忠氏は宝治合戦にて三浦一族ともども自害し果てました。

三浦員村の子供(三浦朝村の孫になりますね)は宝治合戦後北条氏にとらえられ、加藤河津伊豆守尚景の預かりになったといいます。

今川氏の家臣で江戸幕府の旗本であった駿河三浦氏は、三浦朝村の子孫だと言います。

三浦義村の嫡男(次男):三浦泰村

三浦義村の嫡男で母は土肥遠平の娘と伝わります。

泰村という名前は執権・北条泰時からの偏諱で、泰時の娘を正室とするなど、北条家とも当初は良好な関係を築いていました。

彼の姉妹である矢部禅尼は、泰時の妻でもありました。

しかし、泰村の妻(北条泰時の娘)は、子供の死産などで衰弱し、早世してしまいます。

北条氏との関係もだんだんと悪化し、最終的に宝治合戦にて一族郎党ともども自害する羽目になりました。父・三浦義村の死から10年もたたない時分のことです。

泰村の子三浦景村、三浦駒石丸らも父泰村と運命を共にしました。ただ異説によると、泰村の次男・三浦景泰は生き延びて子孫を残し、上野沼田氏として戦国時代まで続いたとのことです。

三浦義村の三男?六男?:三浦長村

詳細不明。生母は不明。六郎左衛門尉との別称がある。宝治合戦での死者には名前がないため、宝治合戦を生き延びたか、もしくはこれ以前に亡くなっていた可能性があります。

三浦義村の四男?三男?:三浦光村(駒若丸)

三浦泰村の同母弟で、若い時分には公暁の門弟だったこともあります。

幼名は駒若丸です。この時分には鶴岡八幡宮で乱闘騒ぎを起こすなど、なかなかやんちゃな子供だったようです。

北条義時次男・名越朝時の子である名越光時を烏帽子親とし、名前の「光村」も彼にちなんだものでした。

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光村は四代目将軍・九条頼経(いわゆる摂家将軍ですね)の側近であったため、反北条勢力として活動していました。宮騒動などの陰謀にもかかわっていたようです。

最終的に宝治合戦にて自害することとなりますが、敵方に自分の首がいくことがないように、誰だかわからないように自分の顔を刀でめちゃくちゃに切り裂いたのちに自害したといいます。

息子・駒王丸も父光村ともども自害しました。

光村には他にも、まだ赤子にすぎない子供がいたともいいますが、母親(光村妻・後鳥羽院北面武士藤原能茂娘)とともに鎌倉を追われ、加藤河津伊豆守尚景の預かりになったといいます。

妻子のその後の行方は分かっていません。

三浦義村の四男?六男?:三浦家村

「三浦駿河式部四郎家村」という表記もあります。宝治合戦には参加していたようですが、生死は不明。どうも逃げて落ち延びたのでは?と言われています。

彼は島津忠時の娘と結婚してたようで、彼女との間に3人の子供(まだ赤子だった)がいたそうですが、家村の妻と子供たちは宝治合戦後加藤河津伊豆守尚景の預かりとなって、鎌倉を追われたようです。

三浦義村の五男?七男?九男?:三浦重村

生母は不明。「七郎左衛門尉」との別称あり。宝治合戦の死者に、「三浦九郎重村」がいるので、同一人物の可能性がある。

三浦義村の七男?五男?:三浦資村

生母は不明。別称は「五郎左衛門尉」です。資村は宝治合戦にて一族郎党ともども自害し果てました。

三浦義村の八男:三浦胤村

生母は不明。別称は「八郎左衛門尉」です。彼は宝治合戦時には奥州にいたため一族ともども自害することにはなりませんでした。

のちに小山長村に生け捕られ、鎌倉に送られますが、助命されます。

胤村は出家し「入道」と称していましたが、これは宝治合戦後に親鸞聖人に帰依したためと言われています。

駿河三浦氏は長兄朝村の子孫だと言いますが、一説には胤村の子、頼村の子孫だともいいます。

三浦義村の九男?:三浦重時

詳細不明。重時だと同時代には北条重時(極楽寺重時)などがいますから、本当にこのような名前の息子がいたかは分かりません。

三浦義村の九男?十男?:良賢

僧侶でした。宝治合戦には参加していなかったようですが、乱後に北条氏によって召しだされたと伝わります。

三浦義村の娘:矢部禅尼

三浦義村の娘の一人は、北条泰時に嫁ぎ、北条時氏を産みました。時氏は早世しましたが、時氏の子である経時、時頼は執権となり、得宗家の血をつないでいくこととなります。

しかしいつのころか泰時とは別れ、同族である三浦氏庶流・佐原氏の佐原盛連と再婚します。盛連との間に、蘆名光盛・加納盛時・新宮時連の3人を儲けました。

宝治合戦において矢部禅尼の子たちは北条氏側についたため、矢部禅尼の子(加納盛時)が、新たな三浦氏当主となりました。

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三浦義村の娘:土岐光定室

詳細は不明。

土岐光定は九代目執権北条貞時の娘を妻としたともあるので、光定の前妻だったのかもしれません。(ただ土岐光定は1281年に亡くなっているのですが、北条貞時は1272年生まれであるのでその娘を妻にするとは……?とかなり年代に食い違いがあります。北条貞時の姉妹を妻にしたならまだぎりぎり分かるような気がします。)

三浦義村の娘:毛利季光室

三浦義村には、政所初代別当・大江広元の息子である毛利季光に嫁いだ娘がいます。

彼女がいつ頃生まれたのかは分かりませんが、とりあえず泰村の妹であることは分かっています。

宝治合戦時、夫の季光は当初三浦氏ではなう幕府(北条)側につこうとしたようですが、彼女の「兄義村を見捨てるのは武士のすることではない!」という言葉に突き動かされ、三浦氏に味方することとなります。

その結果、季光の子広光、光正、泰光、毛利吉祥丸らはみな討ち死に、自害する果てになります。

また得宗家の北条時頼に嫁いでいた娘は離縁させられる羽目になりました。

ただ、越後に残っていた毛利季光四男・経光のみは生き残り、彼の子孫は安芸毛利氏となり、長州藩主として幕末まで続いていくこととなります。

三浦義村の娘:関政泰室

三浦義村の娘の一人は関政泰に嫁いだといいます。

関政泰は常陸関氏の出身でした。承久の乱では京方(朝廷側)として戦っていましたが、降伏したことであやうく難を逃れています。もしかしたら岳父の義村の助けなどがあったのかもしれませんね。

承久の乱を辛くも生き延びた関政泰ですが、宝治合戦にて三浦方として戦い、三浦一族ともども自害し果てました。

三浦義村の娘?:千葉秀胤室

三浦義村の娘の一人は千葉秀胤に嫁いだといいます。ただこの女性は、実は義村の娘ではなく、義村の妹(つまり三浦義澄の娘)という説もあります。

どちらにせよ千葉秀胤は三浦氏と関係が深かったため、名越光時ら反得宗家勢力が弾圧された寛元政変において、上総国に追放されています。

さらに宝治合戦後に秀胤は執権・北条時頼の命令によって北条方の軍勢に屋敷を取り囲まれます。秀胤は積極的な反撃に出ることなく、息子の式部大夫時秀、政秀、泰秀、景秀らとともに自害しました。

秀胤の子孫(泰秀の子など)は助命され、一族は続いたようです。

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