細川家のお市の方・細川伊也

中世史(日本史)

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

 

戦国時代の悲劇的な女性として有名なのは、織田信長の妹・お市の方ではないでしょうか。

兄によって夫を殺されるという悲劇は、今もなお語り継がれています。

とはいえど、戦国時代には同じような運命をたどった女性は多くいました。

今回はその一人、細川幽斎の娘・細川忠興の妹である「細川伊也」姫について書いていこうと思います。

一色家に嫁ぐ

細川伊也は、細川忠興の5歳下の妹として生まれました。

織田信長の命令により、父細川幽斎(この当時は「長岡藤孝」ですが、便宜上「細川幽斎」とします)は丹後を調略していましたが、弓木城の一色家相手に非常にてこずっていました。
見かねた明智光秀の助言により、一色家と細川家は和議を結ぶことになりました。その一環として、伊也は一色家の義定に嫁ぐことになったのです。

ちなみに一色家は室町幕府の四職の筆頭であった家ですが、このころには丹後の一勢力になっていました。
しかし、一色家の嫡子であった義定はかなりできる人間だったようで、信長にも家臣として認められた人物でもありました。

このころ伊也はまだ10代前半だったと思われます。

しかし、本能寺の変が勃発。細川家同様、明智光秀とかかわりの深い一色義定は、明智家へ味方することを決めました。

しかし、細川家は……光秀に味方しませんでした。
そして、その判断が正しかったことは、すぐにわかりました。

夫の死―そして、兄に……

細川家からすると、伊也の夫、義定を生かしておくことはできませんでした。

本能寺の変の混乱冷めやらぬ1582年9月、宴にかこつけて一色義定を呼び出した兄・細川忠興は義定を誅殺しました。
一色家は義定の叔父が後を継ぎ、未亡人となった伊也は実家に戻ります。

伊也は、しかし泣いて過ごすだけの女ではありませんでした。

兄に迎え入れられた伊也は、懐から出した短刀で兄の鼻を真一文字に切りつけ、一生消えない傷を負わせました。
家臣によって取り押さえられなければ、あるいは……

細川伊也の再婚

義定の死からさほど時間のたたないうちに、伊也の再婚話がでてきました。
伊也はこの時点でまだ10代半ばですから、しょうがないことなのかもしれません。
それか、兄に刃を向けた娘をはやくどこかに落ち着かせたかったのか。

伊也の再婚相手は吉田兼治、公家で神官の家柄の出身でした。
伊也の曾祖父は吉田家の出身(吉田家から同じく公家の清原家に養子に行った)ですから、そのつながりでしょうか。

再婚した伊也は5人の子供を産んだといわれています。

岳父の吉田兼見の日記『兼見卿記』によると、母の沼田麝香が、孫の様子を見に、伊也のもとを尋ねることもあったようです。

戦国の遺風も遠くなった慶安年間に、84歳で亡くなりました。

一色義定と伊也に子供はいたのか?

一色義定と伊也の結婚生活はおそらく2年くらい?と思われます。
wikipediaとかを見ると子供はいないように思いますが、史料をみると、子供がいたように思われます。

女子・伊也(一ニ也伊)吉田左兵衛督卜部兼治室 永禄十一年(1568)戌辰生レ・月日不明・初メ一色左兵衛督義有ニ嫁ス、
義有亡キ後更ニ吉田左兵衛侍従卜部兼治(身上千石)ニ嫁ス、幸朝(又幸能、愛宕山下坊福壽院住持、妙庵幸賀弟子ナリ、僧正)ノ母ナリ 慶安四年(1651)辛卯二月廿四日洛外吉田山中神龍院ニテ卒去ス、年八十四、法号浄勝院雄誉英光

引用:『細川家記』 ※義有=義定のこと

(天正九年)五月、藤孝君御女伊也一色義有に嫁せられ候…(中略)…十二月朔日義有男子出生、五郎と名付らる

引用:『綿孝輯録』

結婚当時10代前半だったと思われる伊也ですが、どうも一色義定との間には男子がいたようです。
結婚してから7カ月?くらいで生まれたみたいですが。

「五郎」と名付けられらこの子供は、しかし一色家の後を継ぐことはなく、僧籍に入りましたが、20代で亡くなったようです。
父の義定も「五郎」という通称だったようですので、おそらく父が健在だったら、この子供が一色家の後継者となっていたのでしょう……

夫は殺され、息子も(おそらく細川家の思惑で)後を継げず。

伊也が兄に切りかかるのも当然といえば当然ですよね。

また、伊也と一色義定の間には、娘もいたという説もあります。

この娘は「細川幽斎養女= 一色義次の娘」で公家の中院通勝に嫁いだ、といわれています。
中院通勝は、細川幽斎の和歌の弟子でもあります。この細川幽斎養女は、通勝の後継ぎとなる中院通村を生みました。
とはいえど、「一色義次=一色義定」なのかはわかりませんし、通村の生まれた年(1588年)から考えると、伊也と一色義定の娘と考えるのは難しいようにも思います。
この女性は伊也の娘ではなく、伊也の縁で細川家に引き取られた一色家の女性、と考えるほうが自然でしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました