上総広常と並ぶ房総の大物と言えば、千葉常胤でしょう。
親族でもある上総広常の死後、広常の地位を引き継いで房総平氏の惣領の地位を得て、大物御家人としての地位を確立しました。
そんな千葉常胤の妻(正室、側室)と子供、子孫について調べてみました。
千葉常胤の正室:秩父重弘の次女(円寿院殿とも)
七夜儀、千葉介常胤、沙汰之常胤、相具子息六人、著侍上父子裝白水干袴、以胤正母、〈秩父大夫重弘女、〉爲御前倍膳
引用:『吾妻鏡』
千葉常胤の正室は、武蔵国の武士であり、在庁官人として留守所総検校職を引き継いでいた秩父重弘の娘(一説には秩父重弘の次女だといいます)でした。
秩父重弘の娘の甥には、鎌倉幕府の重臣であった畠山重忠がいます。
彼女は夫の千葉常胤を良くサポートしたようで、北条政子が源頼家を産んだ際に、生誕7日目を祝う「七夜之儀」で、頼朝の給仕係を務めました。
また政子の妊娠中には、お腹を保護するための帯を献上しています。
秩父重弘の娘は、千葉常胤との間に千葉氏の総領となる千葉胤正、相馬師常、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤通、東胤頼ら多くの男子を産んだと言われています。
千葉常胤の側室:不明
千葉常胤には多くの男子がいますが、そのうち六男の東胤頼までは、秩父重弘の娘との間に生まれたと考えられています。
七男?の園城寺の僧侶・日胤だけは生母が不確定のため、もしかしたら側室所生なのかもしれません。
兄弟の中で一人だけ出家しているのも、母が違うから……かもですね。
ただ千葉常胤に本当に側室がいたのかは分かりません。もしかしたら日胤も、秩父重弘娘の所生かもしれません。
千葉常胤の嫡男:千葉胤正
千葉常胤の長男・千葉胤正は千葉氏当主の座と、房総平氏の総領の座を受け継ぎました。千葉新介などと名乗ったと言われています。
彼は北条義時らとともに、頼朝の寝所を警護する11名にも任命されるなど、頼朝の信頼も篤かったようです。
千葉胤正の子孫は千葉氏として続きました。
千葉氏は戦国時代まで続きますが、戦国時代には当主がたびたび暗殺されるなど混迷を極めます。また、千葉氏は後北条氏に臣従していたため、小田原征伐後に所領を失いました。
しかし千葉氏の一族自体は、仙台藩や一関藩と言った東北の諸藩の家臣になったり、帰農して庄屋などになったりしたようです。
千葉常胤の次男:相馬師常
苗字の由来は、下総国相馬郡相馬御厨から。
相馬師常の子孫は、奥州の戦国大名・相馬氏になります。相馬氏は中村藩主として、幕末まで陸奥国南東部を支配し続けました。
ちなみに平家物語との関連性も深い軍記物語『源平闘諍録』によると、伊東祐親の娘で頼朝の最初の妻であった八重姫は、千葉氏に嫁いだというのですが、その相手はこの相馬師常だったのでは?とのことです。
もしも八重姫が相馬氏に嫁いでいたのなら、以後の相馬氏には八重姫の血が流れているのかもしれませんね。
千葉常胤の三男:武石胤盛
千葉常胤の三男で、武石三郎を名乗りました。苗字の由来は下総国千葉郡武石郷から。
また、奥州合戦後に、陸奥国の宇多郡、伊具郡、亘理郡の一部を領地として与えられています。
彼の子孫は亘理郡へと移住し、亘理氏を名乗りました。亘理氏は戦国時代に伊達氏の傘下に入ります。
亘理氏は仙台藩伊達家から養子を迎えるなど、伊達家とも深い関係を築きました。
千葉常胤の四男:大須賀胤信
千葉常胤の四男。通称は多部田四郎とも。苗字の由来は下総国香取郡大須賀保。大須賀保自体はもともと上総広常の領地でしたが、広常死後に胤信が地頭職となりました。
彼の子孫は大須賀氏を名乗ります。戦国時代、三河国の徳川氏に仕えた大須賀康高が有名でしょうか。
大須賀康高の娘は徳川四天王・榊原康政に嫁ぎ、康高の孫が母の実家である大須賀氏を継ぎますが、最終的に榊原氏を相続したため、大須賀氏は断絶しました。
千葉常胤の五男:国分胤通
千葉常胤の五男。国分五郎と称しました。苗字の由来は下総国葛飾郡国分寺領。
ちなみに国分寺領は、もともと下総国目代平重国によって管理されていたのですが、国分胤通の弟である東胤頼らによって討ち取られ千葉氏に略奪された……という来歴を持っていたりします。相馬御厨といい、荒々しい……。
彼の子孫は国分氏を名乗ります。国分氏は江戸時代以降、鹿島神宮の神官、水戸徳川氏家臣、土井氏家臣などになりました。
千葉常胤の六男:東胤頼
千葉常胤の六男・東胤頼は、朝廷に仕え、父の位階(六位)を上回る従五位に任ぜられました。苗字の由来は、下総国東庄によるもので、東庄を得るまでは、もっぱら「千葉六郎」と名乗ったようです。
武士ながら、和歌などの風流ごとに素養がありました。
ちなみに東胤頼は、文覚上人の姉妹(滝口武者の家系・遠藤氏)と結婚しています。意外なところで繋がっていますね……!
東胤頼の子孫は東氏を名乗りました。東氏の総領家は小田原の後北条氏に仕えたようですが、後北条氏の滅亡とともに断絶していると言われています。
美濃国郡上に拠点を置いた東氏の庶流は、戦国時代まで続きますが、戦国末期に家臣の遠藤氏に下剋上されました。
女系ではありますが、東胤頼の娘は土岐氏に嫁ぎ、その血筋は公家にもつながって天皇家へと至っています。
千葉常胤の七男?:日胤
日胤者、千葉介常胤子息、前武衛御祈祷師也
引用:『吾妻鏡』
千葉常胤の七男とも言われますが、出家していることもあって詳細は不明です。実際には東胤頼らの兄だったかも?
日胤は、もともと源頼朝の祈祷僧を務めていたといいます。
園城寺にて出家予定だった以仁王とも、おそらく以前から関係があったのでしょう。
頼朝の依頼により、1000日間の石清水八幡宮参籠をするために上洛しますが、そこで以仁王の乱のことを知り、乱に参加して戦死しました。
父の常胤は息子の死を悲しみ、円城寺という寺を創建します。のちに千葉氏の庶流が、この円城寺にちなんで円城寺氏を名乗りました。
千葉常胤の娘?: 久米御前
鎌倉幕府三代目将軍・源実朝は、一般的には側室はいなかったとされていますが、実は千葉氏出身の久米御前なる側室がいたという説があります。
久米御前は、千葉常胤の娘とされることが多いです。
彼女は実朝の死後出家しますが、実朝の死の悲しみが癒えることはなく、半年ほどで後を追ったと伝わります。