大賀弥四郎(大岡弥四郎)の妻子と一族たち

中世史(日本史)

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

天正三年(1575)、武田氏と内通したとして、岡崎城下の町奉行を務めていた武士・大賀弥四郎(大岡弥四郎)が鋸引きという酷刑にて亡くなりました。

彼の死からおよそ4年後、彼の主君でもあった徳川信康(松平信康)は父によって自害を命じられ、死に追いやられることとなります。

信康の死には諸説ありますが、一説には母・築山殿の武田氏内通疑惑によるものだといい、また一説には信康家臣と家康家臣の軋轢などが原因だったといいます。

その意味では、武田氏に内通したこと、そして岡崎派、つまり信康の家臣であった大賀弥四郎(大岡弥四郎)の死は、この4年後家康を襲う悲劇をある意味では象徴していたと言えるでしょう。

さて、この大賀弥四郎(大岡弥四郎)ですが、徳川氏が天下を取る前に謀反を起こして処刑されたということもあって、あまり詳しいことは分かっていません。

この記事では、そんな謎多き大賀弥四郎(大岡弥四郎)の家族(妻子)や子孫、かれの一族について調べてみました。

大賀弥四郎(大岡弥四郎)の妻(正室):中根正照の娘

大賀弥四郎ハ、是をバ夢窹知らずして、女房に向ひて申けるハ、「我ハ謀叛之企み、御主を打奉らん」と申けれバ、女房まことにもせずして、「ぢやれ狂者にも、いうべき事をこそ云たるもよけれ。さやうなる事を。いま〳〵わ敷。聞き度もなし」とてそばむけバ、弥四郎重て申けるハ、「夢々偽にあらず」と真し顔に申けれバ、其時、女房おどろきて、「げに〳〵、左様なる企をたくミ給ふか。さても〳〵、天道の尽果て給ふ者哉。

引用:『三河物語』

大賀弥四郎(大岡弥四郎)の妻は、一説には二俣城主・中根正照の娘だったといいます。

彼女の父親である中根正照は家康の家臣として二俣城の城守となり、また家康の息子・信康の家老にもなるなどかなり家康・信康の信頼篤き武将だったといいます。

しかし中根正照は三方ヶ原の戦いにおいて討ち死に、もしかしたら大賀弥四郎(大岡弥四郎)が武田方に内通したのは、この義父の壮絶な死なども影響していたのかもしれません。

そして父の死の二年後、彼女の夫は謀反の罪にて酷刑に処されることとなります。

ちなみにこの時、『三河物語』によると、夫の謀反の意志を聞いた弥四郎の妻は夫を嗜めたといいますが、この行動は無駄に終わってしまいました。

(『三河物語』は弥四郎の死後数十年たった江戸初期に出来た書物ですから、実際にそのようなことがあったかは不明ですが……)

弥四郎の父をはじめとした弥四郎の家族、もちろん妻であった正照の娘、そして二人の間の子供も大賀弥四郎(大岡弥四郎)に連座して、磔になったといいます。

彼弥四郎父子夫婦一類不残磔ニカケラレ同類御成敗

引用:『三河記』

弥四郎父子、夫婦已上八人搦捕磔ニ被掛、其外同類悉く御成敗被成

引用:『岩渕夜話集』

大賀カ妻其子四人ヲ捕テ三州念志原ニ磔ニス

『家忠日記増補追加』

年齢は分かりませんが、まだ若かったのではないでしょうか。

ちなみに、彼女自身の血筋は途絶えましたが、彼女の兄弟の血筋(中根家)は続いています。

彼女の兄弟と思われる中根忠元は信康の家臣でしたが、後に罪を得て徳川家を離れ、本多忠勝の家臣となったといいます。

また中根家を継いだ兄弟・正重は信康に仕えた後、家康の家臣となり二百石の旗本として子孫が続くこととなります。

大賀弥四郎(大岡弥四郎)の子供:不詳

大賀弥四郎には妻・中根正照娘との間に複数人の子供がいたようです。

その数は一説には四人(妻子五人を磔にした、という記録から)あるいは七人(妻子八人を磔にした、という記録もあり)となります。

いずれにせよ、弥四郎にはまだ幼い子供たちがいたようですが、父・弥四郎に連座してこの子供たちは皆はりつけにされて殺されてしまいます。

子供たちが皆殺されたため、当然ながら大賀弥四郎(大岡弥四郎)の子孫は後世にはのこっていません。

ちなみに、この時娘二人が助命された、という説もあるようですが、彼女たちは誰にも嫁ぐことなく一族の菩提を弔うべく尼になったといいます。

大賀弥四郎(大岡弥四郎)は大賀氏?大岡氏?

大神君ノ奴僕大賀弥四郎ト云者卑賎ノ者タリ

引用:『家忠日記増補追加』

大賀弥四郎は「大賀弥四郎」以外にも「大岡弥四郎」と表記されるため、その出自は大賀氏とも大岡氏とも言われています。

ちなみに弥四郎の出自についてはいろいろと言われていますが、『家忠日記増補追加』などでは「卑賎」と書かれているため、低い身分から才覚でのし上がった人物のように描写されています。

とはいえど、岡崎城下の町奉行を務めていたのならば、武士の中でもそれなりの家柄の出自であったことは間違いないでしょう。

一 今年ヨリ 家康公浜松御在城也 依之岡崎城ハ御惣領三郎信康君御在城也

御守 平岩七之助 石川豊後守 鳥居伊賀守
町奉行 松平新右衛門 江戸右衛門七 大岡弥四郎(大岡諸書作大賀)

引用:『岡崎領主古記』

もしも彼が大賀氏だったとするならば、三河国の武家・大賀氏の出でしょう。

ただ、大岡氏だったとしたらさらに有力な家門となります。

松平広忠に仕えた大岡忠勝を初代とする大岡氏は、複数の旗本家などを輩出し、さらに江戸時代中期にいわゆる名奉行・大岡越前守こと大岡忠相を輩出し、のちのちには大名ともなりました。

ちなみに大岡氏の一人・大岡忠政(江戸幕府旗本)の姉妹には中根正次に嫁いでいる女性もいるので、中根氏とのつながりとかを考えても、弥四郎は大岡氏だというのがぴったりとくるような気もしますね。

タイトルとURLをコピーしました