鳥居元忠の妻と子と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

家康の側近であり、関ケ原の戦いの前哨戦・伏見城での激戦にて壮絶な最期を遂げた鳥居元忠。

『どうする家康』では、チームナックスの一員である音尾琢真さんが演じることでも話題になりましたね。

そんな鳥居元忠の妻、子、子孫には、いったい誰がいるのでしょう。

気になったので調べてみました。

鳥居元忠の正室:松平家広の娘

鳥居元忠の正室は、松平家の分家の一つ、形原松平家の松平家広の娘です。

ちなみに『寛政重修諸家譜』だと、姉に石川数正室がいる!ことになっているのですが、多分間違いでしょうね……。(『寛政重修諸家譜』石川家の項では、数正の妻は内藤氏になっています。)

彼女は徳川家康の従兄弟の娘で、また義母(父家広の正室)は家康の叔母(家康の母・お大の妹)であるなど、家康とも関係性のある女性でした。

彼女がいつごろ元忠に嫁いだのかは分かりませんが、息子の生年(長男康忠は生年不明だが、次男忠政は永禄九年【1566】生まれ)などを考えるならば、1560年ごろではないでしょうか。

松平家広の娘と結婚した当時の元忠は20代の青年武将だったと思われます。

彼女は、土岐定政に嫁いだ娘、鳥居康忠、鳥居忠政、鳥居成次の三人の男子を産んでいます。

彼女がいつごろまで生きたのかは分かりません。

ただ、松平家広の娘が最後に産んだ鳥居成次が元亀元年(1570年)の生まれであること、鳥居元忠の継室とも言われる馬場信春の娘は、おそらく武田家滅亡の1582年(天正10年)以降に元忠の妻になったことを考えるならば、1570年代に早世した可能性も否定できません。

鳥居元忠の側室(継室?):馬場信春の娘

勝頼亡びて後、馬場美濃氏房が女召出さるべしとて、甲州の郡代鳥井彦右衛門元忠に仰出されしに、尋ねさはし候へど行へしれざる由を申けり、程経て其あり所しれたる由を申す人の有りければ、東照宮何かたにかくれゐたるぞと御尋ねあり、即鳥井がもとに潜に匿し置きたると申ければ、すべて彦右衛門はぬからぬもの哉と仰せ有りけるとぞ。

引用:『常山紀談』

鳥居元忠は、武田家の重臣・馬場美濃こと馬場信春の娘を妻にしていました。彼女は、鳥居元忠の側室、もしくは継室になりました。ちなみに彼女の姉妹の一人は、かの真田幸村の叔父にあたる真田信尹に嫁いでいます。

さて、馬場信春の娘は、武田家滅亡後に行方をくらましますが、武田家の女性に並々ならぬ関心があった徳川家康が側室に加えようと、彼女の捜索命令を鳥居元忠に出しました。

鳥居元忠は、命令通りに馬場信春の娘を見つけ出すのですが……なんと鳥居元忠、この女性にほれ込んでしまったようで、彼女を主君の家康に差し出すことなく、「見つかりませんでした。」と家康に対してぬけぬけと答えて、自分の妻にしてしまったのです。

後でそれを知った家康は「抜かりない奴だ……」と言ったとか言っていないとか。

『寛政重修諸家譜』によると、彼女は元忠との間に、鳥居忠勝、鳥居忠頼、鳥居忠昌の三男と、戸沢政盛の妻となった娘一人を儲けたそうです。

なお彼女については、夫の籠る伏見城の図面を見て、「この城が落ちるとすれば、松の丸からでしょう。」と語り、実際その通りになったという話も伝わっています。

鳥居元忠が彼女を家康の意向に背いてまでも妻にしたのも、美貌だけでなく、父に負けないほどの慧眼であったからかもしれませんね。

鳥居元忠の側室:不明

鳥居元忠に、上記二人の妻以外にも側室がいたかどうかはよく分かっていません。

ただ、鳥居元忠の子供たちは、すべて上の二人の妻たちとの間に生まれているため、もしかしたら元忠は彼女たち以外の女性を側室に迎えることはなかったかもしれませんね。

鳥居元忠の子供たち

鳥居元忠は、2人の妻との間に、それぞれ3男1女、合計6男2女を儲けています。元忠の子供たちは、どのような人物たちだったのでしょうか。

鳥居元忠の長男:鳥居康忠

鳥居元忠の長男。松平家広娘の所生です。後継ぎとみなされていたようで、父同様に、松平一族の女性(竹谷松平家の松平清宗の娘)と結婚していました。

ちなみに彼の正室の祖母(松平清宗の母)は、松平家広の娘という説があるようで、もしかしたら、康忠は自分の従兄弟の娘と結婚していたのかもしれません。

将来を嘱望されていたと思われる康忠ですが、天正十九年(1590)に、父元忠に先立って、元忠の所領であった甲斐国郡内において二十余歳で亡くなりました。

一説には22歳で死去、とのことですが、そうなると弟よりも後に生まれたことになるので、おそらく20代後半だったのではないでしょうか……。

鳥居元忠の次男(嫡男):鳥居忠政

元忠の跡を継いで、下総矢作藩主となったのは、元忠の次男・忠政でした。彼は武勇に優れ、10代で小牧・長久手の戦いで初陣を果たし、さっそく殊勲を立てたと言います。家康の信頼も篤く、関ケ原の戦い時には江戸城の留守居役を務めていました。

関ケ原の戦い後、父元忠の戦功もあって、陸奥磐城平に10万石を与えられています。矢作藩が4万石であったことを考えると、倍以上の加俸だったのですね。

彼の出世は父の名誉ある死によるものだけではありませんでした。彼自身、家康、そして次代の秀忠らに評価されていたと見え、元和八年(1622)の最上家改易後には、出羽山形藩22万石の藩主になりました。

戦国以前から長きにわたって出羽の地を治めていた最上家の後を任せても大丈夫!と思われるほど手腕を評価されていたのですね。

ただ家庭内ではどうもうまくいっていなかったようです。

正室・滝川氏腹の長男・忠恒が跡を継ぎましたが、彼は子供なく早世しました。

その際、側室腹の異母弟・忠春を養子にすればよかったのですが、忠恒は忠春の母であった忠政の側室・内藤氏が大嫌い!だったため、養子に指名しようとしませんでした。

最終的に忠春が鳥居家を継承しますが、せっかくの山形藩は没収され、信濃国高遠藩3万2000石への改易となってしまいました。

ちなみにこの改易、祖父元忠の功績で何とか減封だけにとどまったそうです。(全部没収ということもありえたようですね)

忠政の子孫は、のちに何度かの移封の結果、下野壬生藩の藩主家となり、幕末を迎えています。

鳥居元忠の三男:鳥居成次

鳥居元忠と、松平家広娘との間に生まれた三男が鳥居成次です。彼は父・元忠の跡を継いで甲斐国の郡内2万石を治めた後、郡内を含んだ甲斐国谷村藩主として分家を立てます。

かなり蛮勇に優れた人物であったと思われ、大坂の陣では1日で首級を28人分あげたこともあったとか……。

しかし、彼の運命は、徳川秀忠の次男・駿河大納言こと徳川忠長の家臣となったことで暗転します。

忠長は兄・家光と一時期将軍の座を争っており、そのこともあってか少し精神的に不安定なところがありました。兄・家光の治世下で、忠長は失脚、自害に追い込まれ、それにともなって、成次も失脚、谷村の領地を奪われることとなります。

成次は、忠長失脚直後の寛永八年(1631)に亡くなっています。成次の次男・忠春(くしくも従兄弟と同名ですね)は、江戸幕府の旗本となっており、成次の子孫は旗本として続いたようです。

鳥居元忠の四男:鳥居忠勝

鳥居元忠の四男で、馬場信春の娘との間に生まれました。通称は左近。彼は水戸藩主・徳川頼房に仕え、彼の家系は、水戸徳川家の家臣となったようです。

忠勝の娘は、赤穂藩浅野家筆頭家老・大石良欽に嫁ぎました。

彼女の孫息子で、鳥居忠勝のひ孫にあたる大石良雄は、元禄年間に、吉良上野介を討ち取ったことで有名な大石内蔵助です。

鳥居元忠の五男:鳥居忠頼

鳥居元忠の五男で、母は馬場信春の娘。通称は左近、讃岐守、石見守、美濃守などとなのったそうです。

慶長十一年(1606)に、初めて徳川秀忠に出仕し、その後上野国勢田、下野国梁田、上総国武射などに1500石を有す旗本となりました。

鳥居忠頼の家系は、後に三兄・成次の孫を養子に迎え、旗本の家として続いたようです。

鳥居元忠の六男:鳥居忠昌

鳥居元忠の六男で、母は馬場信春の娘。伯耆守と名乗ったようです。

詳細は不明ですが『寛政重修諸家譜』によると、「家臣となった」そうですから、兄の鳥居忠政に仕えていたのか、他家に仕えていたのかもしれません。

鳥居元忠の長女:土岐定政正室

鳥居元忠の初子(鳥居康忠の姉)だったと思われます。明智光秀の親族だと伝わる武将・土岐定政に嫁ぎました。

彼女は天正八年(1580)に、定政の嫡子・定義を産んでいます。定義から始まる沼田藩主土岐家は、養子を迎えるなどして血筋は途絶えましたが、家自体は沼田藩3万5000石の大名として、幕末まで続きました。

鳥居元忠の次女:真室御前(巨川院、戸沢政盛正室)

鳥居元忠と馬場信春の娘との間に生まれた次女です。出羽新庄藩主・戸沢政盛に嫁ぎました。

この縁談は、徳川家の覚えめでたい鳥居家と近づきたいという思惑あってのものだったと伝わります。

ただ残念ながら、彼女に子は生まれなかったようです(政盛の子供たちの母親は「某氏」もしくは、側室楢岡氏)。

政盛は、鳥居家との関係を途絶えさせたくなかったと見え、真室御前の甥にあたる定盛を養子に迎えたりもしました。ただ定盛は早世、最終的に政盛と側室楢岡氏(於佐古の方)との間の息子・正誠が政盛の後継者となっています。

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