明智光秀とその愛刀

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

武士の魂とまで言われるものが刀ですね。
最近は日本刀を擬人化したゲームも流行っていますが、そういえば大河ドラマの主人公・明智光秀はどのような刀を所有していたのでしょうか?
信長の重臣であった彼のことですから、さぞや名刀を所有していたのだろうとは思われますが……

明智光秀の愛刀について、調べてみました。

明智光秀は実は刀よりも鉄砲が得意

今回の大河ドラマでも書かれていますが、光秀自身は刀をもって戦うというよりも、どちらかというと射撃のほうが好きだったようです。光秀が鉄砲が得意だったことは『明智軍記』などに記載があり、その鉄砲の腕前で越前朝倉家の鉄砲隊を率いたといわれています。一説には、約45.5mの距離から撃った的に百発百中、さらに、飛んでいる鳥も撃ち落としたとも言われています。

義景、明智十兵衛を召され、汝が儀は、去年の加賀一戦の時分、鉄炮にて余多の敵を打ち落とし、高名せしむる処なり。

『明智軍記』より

一尺四方の的立て、四月十九日巳の中剋に放し始めて、午の貝吹く黎には、一百の鉛玉を打ち納れたり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にぞ当たりける。諸人、これを感歎してけり。

其の後、義景、明智が才芸の程を感じ給ひけるにや、諸士の本子を百人撰み出し、鉄炮寄子とし、明智に預け給ひける故、秘術を尽くし、指南せり。

『明智軍記』より

ちなみに光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉の軍に敗北を喫したのは、明智軍の火縄が湿ってしまったことも原因だといわれています。鉄砲で立身したのに、鉄砲で負けてしまったのですね……

光秀の愛刀1:明智近景

備前長船近景作の刀で、金象嵌で施された「明智日向守所持」の銘があったそうですが、後世この刀を所持した人がその銘を落としてしまいました。銘を信用するならば、暦応三年の作だそうです。

明智の名前がある刀だと、ほかに「明智兼光」があるのですが、この刀はなぜか徳川家康家臣の成瀬家に伝わっています。来歴でいえば明智光秀→徳川家康→成瀬家、らしいのですが……

光秀の愛刀2:倶利伽羅郷

郷義弘作の短刀です。郷義弘は越中の刀工で、相州正宗・粟田口吉光とともに「名物三作」とも称されるほど珍重された刀でしたが、偽物も多く出回ったことで知られています。

この倶梨伽羅郷は、もともと越前朝倉家所蔵でしたがが、朝倉家滅亡後、光秀が手に入れました。光秀は手元に秘蔵していたそうです。朝倉家で見かけていて、かなり気に入っていたのでしょうか?光秀死後、坂本城落城時に、城とともに焼け落ちました。

「郷の刀は日向守(光秀)存生中常々命もろともと秘蔵致したる道具なれば、吾等腰にさし死出の山にて日向守へ相渡し申すべし」

光秀の愛刀?:亀甲貞宗

明智光秀の所有だったという説があります。(明智光秀ではなく「本阿弥光秀」所有だったとの説も有力ですが……)徳川家康の孫である松江藩主・松平直政の所有になったあと、南部家、尾張徳川家に伝わり、徳川将軍家の重宝になりました。現在は東京国立博物館に所蔵されています。

他にも明智光秀は地藏行平、太郎坊兼光などの刀を所有していたといわれています。また、本能寺の変後に安土城などから略奪した刀剣などもあったようです。

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