羽柴(豊臣)秀長の妻(正室、側室)たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

豊臣秀吉の異父弟で、兄・秀吉を陰に日向に支えるづけた弟・秀長。

兄・秀吉の偉大さゆえに、その功績は隠れていますが、秀吉の天下取りはこの弟の献身なくしては達成できなかったでしょう。

秀長は兄秀吉に先立って亡くなってしまいますが、彼が生きていたら晩年の秀吉が引き起こした惨劇をとめられたのかもしれません……。

兄に先立って亡くなった秀長ですが、彼はどのような女性と結婚していたのでしょうか?

この記事では、羽柴(豊臣)秀長の妻(正室・側室)について調べてみました。

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羽柴(豊臣)秀長の妻:慈雲院芳室紹慶(智雲院?)

大納言殿北方慈雲院、芳室紹慶、逆修、天正十九年五月七日

引用:豊臣秀長妻五輪塔(高野山奥の院豊臣家墓所)銘文より

豊臣秀長の正室の名前は分かっていませんが、彼女が生前に立てた五輪の塔によって、その戒名が「慈雲院芳室紹慶」だったことが分かっています。

彼女は天正十九年の夫の没後、夫の葬儀とともに逆修として自身の五輪の塔を建てたみたいですね。

これより以後亡き秀長以外に嫁ぐことはない、という心の現れでしょうか。夫への愛情かもしれませんね。

彼女がいつ頃、秀長と結婚したのかは分かっていません。誰の娘である、ということも分かっていません。

秀長の子供の母親もぼんやりとしており、子供がいたのかどうかすら分かりません。

秀長の実子はおそらく3人〔与一郎【小一郎】、豊臣秀保室(三八【みや】)、毛利秀元室(大善院、おきくとも)〕いるのですが、このうち次女・毛利秀元室は天正十五年(1587)~十六年(1588)以降に生まれているのに対し、息子・与一郎(小一郎)はそれより早くに生まれ、本能寺の変前後に亡くなったといいます。

与一郎の名前(木下与一郎)の名前は播磨の三木城攻めの将の一人として名前があげられていること、また与一郎がこの時点で正室(後に秀長養女として森忠政に嫁いだお岩)を迎えていることを考えると、若くても1570年前後に生まれていると思われます。

子供の生まれた年代の差を考えると、彼女は早世した長男・与一郎(小一郎)を産んだのかもしれません。

また母親・生まれ年の分かっていない秀長長女・豊臣秀保室も彼女の所生である可能性があります。

かも、可能性があると言うあいまいな言い方になってしまうのは、とにかく記録が少ないためです。

後述する側室・興俊尼と同一人物とされたり、混同されることも珍しくありません。

とにかく何にもわからない女性ですね。

秀長の子供たちはいずれも子孫を残すことなく亡くなった(養子・秀保の妻だったみやが再婚している可能性もありますが)のですが、『森家先代実録』などによると森忠政に嫁いだ秀長養女・お岩の養母は秀長の妻・智雲院だったそうです。

「ちうんいん」と「じうんいん」でかなり音が似ていますし、おそらく正室・慈雲院芳室紹慶のことで間違いないでしょう。

慈雲院芳室紹慶の養女・お岩は森忠政との間に幾人も子を儲けていますから、もしかしたらこの義理の孫たちを可愛がっていたのかもしれません。

慈雲院芳室紹慶は秀長の死後も、かつての秀長の領国であった大和国に2000石ほどの所領を持っていたため、生活に苦しむことはなかったようです。

慈雲院芳室紹慶は夫からおくれることおよそ20年後、大坂の陣前後に亡くなり、その所領は後継者がいなかったため幕府の所領となっています。

豊臣秀長側室:興俊尼(光秀尼、お藤、摂取院藤誉光秀大姉)

秀長が天正十四年(1586)頃に見初め、側室にした女性です。

大和国の国人・秋篠伝左衛門(伝右衛門とも)の娘として生まれた彼女は、法華寺にて尼僧となっていました。

が、たまたま彼女を見かけた秀長がほれ込んでしまい、その勢いに押されて秀長と関係を持ってしまったのです。

こう聞くと、なんとなく若い美貌の尼君を想像しますが、お藤はこのころすでに30代半ばと、当時ではあまり若くなかったりします。

世俗にまみれてないから、年齢よりも若く美しく見えたんですかね?

そして秀長と関係を持った結果、身籠った彼女は親戚の菊岡家を頼り、そこで娘・おきく(のちの毛利秀元室)を産み落とします。

彼女は当初、このことを秀長に隠していたようですが、そのことを知った秀長は娘ともども興俊尼を居城・郡山城に迎え入れます。

興俊尼は還俗して秀長の側室となり、お藤と名乗るようになりました。

お藤の父・伝左衛門も秀長の側近に迎え入れられるなど、彼女は家族ぐるみで厚遇されたようです。

しかし幸せは続きません。

二人が出会ってからおよそ五年後の天正十九年(1591)に秀長は亡くなります。

お藤の不幸はさらに続き、秀長の家臣となっていた父・伝左衛門もその翌年亡くなってしまいます。

そして文禄三年(1594)~四年(1595)頃には、まだ10歳にもなっていない娘・おきくが毛利氏の若君・毛利秀元に嫁ぎ、お藤の手元から離れてしまいます。

その後お藤は、再び仏道の道に入ったようです。

彼女は夫・秀長(もしくは義兄・秀吉)から200石の扶持をもらい、廃寺になっていた尼僧寺院・興福院を復興させました。

夫の死からおよそ30年後、元和八年(1623)に興俊尼は亡くなります。

この時すでに毛利秀元に嫁いでいた娘も早逝しており、彼女からすれば「ようやく娘や夫に会える……」と思いながら、とこしえの眠りについたのかもしれません。

彼女の死後、興福院は一時荒廃しますが、親族の光心尼の尽力によって徳川将軍家の庇護を受けて復興、現在まで続いています。

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