坊門信子(西八条禅尼)源実朝の妻

中世史(日本史)

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鎌倉幕府の源氏将軍の三代目・源実朝。

彼は兄頼家とは異なり、妻はただ一人だったと伝わります。(千葉氏出身の「久米御前」という側室がいたという伝承もありますが、『吾妻鏡』等に記録は残されていないため、公的にはいないと言っていいでしょう。)

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実朝唯一の妻が、公家出身の坊門信子です。京の名門公家の一族出身である坊門信子がどのような女性なのか、調べてみました。

坊門信子の父親は後鳥羽天皇の叔父・坊門信清

坊門信子は、内大臣坊門信清の娘として生まれました。

坊門信清自身は摂関家の主流からは外れた中級貴族の家柄の出でしたが、姉の殖子が高倉天皇の側室として、後鳥羽天皇を産んだことで栄達を果たすことになります。

坊門信清は順調に昇進を果たし、内大臣まで上り詰めました。また鳥羽院の別当など、院政にも深くかかわる役職についていました。

信清は娘信子が実朝に嫁いだ後は、朝廷と鎌倉幕府の調停役なども果たしたようです。しかし1215年(建保三年)、出家、その翌月に亡くなりました。実朝暗殺の約4年前です。

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実朝の妻の名前は「信子」なのか?

さて、当たり前のように実朝の妻のことを「坊門信子」と述べていますが、実は彼女の名前が本当に「信子」だったのかどうかはよく分かっていません。

当時の女性の名づけで多かったのは、「父の名前の一字+子」というもので、坊門信清の娘が「信子」もしくは「清子」などと名乗った可能性はかなり高いのですが……。

『尊卑分脈』では、彼女の名前どころか存在にも触れられていません。

ただ、父の末妹(叔母)にあたる女性が「信子」と名乗っていたこと、彼女の姉妹の一人は「住子」もしくは「位子」を名乗ったことが分かっています。

強いて言うなら、人偏の漢字を用いた名前だったのかしれませんね。

吾妻鏡では彼女の名前は「御台所」とのみ、記されています。

右大臣実朝の妻として、叙位などをされていれば、もしかしたら名前が分かったのかもしれませんんが、彼女は叙位された形跡もないため、名前については不明としか言うしかありません。

ただ、この記事では慣例的に「信子」と呼んでいこうと考えています。

源実朝は坊門信子との結婚前に足利氏の娘との縁談があった

坊門信子と源実朝の結婚は1204(元久元年)年、実朝12歳、信子11歳の時です。鎌倉幕府の将軍と、天皇の親戚でもある公家の娘との結婚はさぞや華々しく祝われたことでしょう。

ただ実は、この結婚はすんなりと決まったものではなかったようです。もともと実朝には、親戚(政子の姪にあたる)・足利義兼の娘との縁談が考えられていたようです。

しかし、北条氏内部での微妙な軋轢(北条政子・義時と北条時政・牧の方の対立)との調整、もしくは『吾妻鏡』にあるように、実朝が京の女性を妻に求めたことなどがあって、信子との縁談が決まったようでした。

信子との結婚は、後鳥羽天皇との姻戚関係を結ぶこと(信子は後鳥羽天皇の従妹)にもなりますから、幕府の権威付けにもなったことでしょう。

坊門信子と源実朝

月影の それかあらぬか かげろふの ほのかに見えて 雲がくれにし   ―源実朝

政治的な思惑などどこかきな臭いにおいのただよう結婚でしたが、この結婚はうまくいったようでした。

源実朝は和歌の名手・藤原定家に教えを乞うなど和歌など文化的な趣味に力を入れており、公家出身の信子とはそれなりに馬があったようです。

信子は義母・政子とは異なりあまり政治的な活動はしなかったようですが、夫ともども寺社詣でに出かけ、そのついでに夫婦水入らずで花見をするなどしたこともあったようです。

晴。晩頭。將軍家爲覽櫻花。御出永福寺。御臺所御同車。先御禮佛。次逍遥花林下給。其後入御大夫判官行村宅。有和歌御會。及亥四點。乘月還御。

引用:『吾妻鏡』

現在まで伝わる実朝の恋歌は、恋人をほのかに見える月に例えるなど、どこか儚いものが多いですが、信子とも恋歌のやり取りをしたこともあったかもしれませんね。

実朝と信子の間には子供はできませんでしたが、実朝は側室を迎えることもありませんでした。

その代わりとでもいうのでしょうか、実朝は亡兄の娘・竹御所や亡兄の子・公暁などを猶子としていました。竹御所とは女同士、もしかしたら交流などもあったかもしれません。

坊門信子と北条政子

將軍家渡御三浦三崎御所。尼御臺所并御臺所同令伴給。

引用:『吾妻鏡』

坊門信子と姑にあたる北条政子の関係性がどのようなものだったのかは判然としません。

ただ信子は、夫実朝、姑政子と連れだって寺社詣でに出かけることもあったようですから、それなりに仲良く過ごしていたように思われます。

政子の夫、頼朝はかつて娘の大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようと画策したこともあるなど、天皇家を重んじる姿勢をもっていました。

政子も、京の天皇家とのつながりのある公家の出身である嫁をそれなりに大事にしたのではないでしょうか。

実朝死後の坊門信子

出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな   ―源実朝

実朝は上記和歌を詠んだ後、甥公暁に襲われ、非業の死を遂げることとなりました。信子の悲しみは深く、鎌倉の寿福寺にて出家し、本覚尼と名乗るようになります。

その後、信子は実朝との思い出深い鎌倉の地を離れ、京へと戻りました。彼女は実朝の京の邸宅・西八条第に住んだことから、「西八条禅尼」と呼ばれたようです。

信子は京へ戻った後、日々を夫の菩提を弔うことに費やしたようです。世間の動きにも、特に反応することもありませんでしたし、前将軍正室として政治的な活動をすることもありませんでした。

しかし、京へ戻った2年後、承久の乱で兄坊門忠信らが処刑されかかります。

この時、信子は幕府へ嘆願し、忠信らは助命、流罪へと罪が減じられることとなりました。これはほぼ唯一、信子が行った政治的な活動と言えるでしょう。

承久の乱後も、将軍前室として信子は仏事にいそしむ日々を続けました。

信子はのちに西八条第を寺とし、遍照心院(大通寺)と名づけます。この寺は夫実朝、そして鎌倉将軍家の菩提を弔うものでした。

信子は文永11年(1274)年に82歳で亡くなります。この時代、鎌倉幕府の将軍は実朝の跡を継いだ摂家将軍から親王将軍へとかわり、七代目の惟康親王、執権は八代目北条時宗でした。

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