穴山信君(穴山梅雪)の妻と子と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

甲斐武田家の滅亡には様々な要因がありましたが、その一つが家臣の裏切りでしょう。

武田二十四将の一人であった小山田信茂、信玄の三女・真理姫の夫であった木曾義昌らの裏切り……そして、同じく信玄の次女の娘婿であった穴山信君(梅雪)の裏切りもまた、武田家の滅亡の要因となりました。

信玄の娘を妻に迎えるほどに厚遇されていたにもかかわらず離反した信君はその後徳川家康に臣従、養女・下山殿を家康の側室に入れるなどしますが、本能寺の変に際して横死することとなります……。

そんな穴山信君(梅雪)の妻や子、子孫にはどのような人物がいたのでしょうか。気になったので調べてみました。

穴山信君(梅雪)の正室:見性院(武田信玄次女)

穴山信君の正室・見性院は武田信玄と正室・三条の方との間に生まれた次女でした。

武田信玄の妻(正室・継室・側室)たち
甲斐の虎とも呼ばれ、勇猛果敢な戦国大名の代表格としても名をあげられるのが武田信玄です。 上杉謙信との川中島での幾度もの戦にはじまり、若き日の家康に三方ヶ原での苦い敗戦を味合わせ、もう少し長生きしていれば信長たちをも退け天下統一を成し遂げて...

彼女の長姉・黄梅院は北条家に嫁いでいましたから、もしかしたら彼女も場合によっては今川家など他の戦国大名の家に嫁いでいたかも?しれません。

彼女は信君とはいとこ同士(信君の母・南松院は信玄の姉妹)にあたります。

二人の間には嫡男・勝千代が生まれ、のちにこの子は見性院の実家である武田家の家督を継ぐことになります……。

彼女が夫・信君の武田家からの離反をどのような思いで見ていたのかは不明です。

悲しんだのか、それとも実兄義信を押しのけて後継者となった異母弟・勝頼の不幸を喜んだのか……。

異母弟・勝頼の死と同年に、本能寺の変が起こり、夫の信君が亡くなってしまいます。

その後息子・勝千代が武田氏の家督を受け継ぎましたが、勝千代は若くして亡くなってしまい、穴山家は途絶えることとなってしまいました。

ちょうどそのころ、家康の側室となっていた義理の娘(下山殿、夫・信君の養女)が家康の五男・万千代丸(福松丸)を生んでいました。

武田氏の家督をつがせんと、見性院は手元に引き取って後見を務めるようになります。

武田氏の家督は、成長した万千代丸(福松丸)―信吉によって継がれましたが、この子もまた、体が弱く、子を残さずに亡くなってしまいます。

夫・息子、そして養子を立て続けに失った後、江戸にてひっそりと生活を送っていたようですが、そんな彼女に思いもよらぬ仕事が降りかかってきます。

二代将軍・秀忠がこっそり手を付けた女中・お静との間に生まれた庶子の世話を任せられたのです。

同(元和)五年二月、見性院様(穴山信君室武田信玄女)御対面御望ニ付、土津様(=保科正之)江戸へ御出府、

引用:『会津家世実記』

わが子をすでに失って久しかった彼女は、この子供を大層かわいがったようで、自身の隠居料の一部をこの子に与えたりしています。

この子供こそが保科正之、会津藩松平家の祖にして、後に甥の四代将軍家綱のサポートなども務めた非常に優秀な政治家となりました。

保科正之が傑物にそだったのも、見性院のたゆまぬ育児が影響していたのかも…‥。

ちなみに「見性院」という法号を持つ同時代人に、賢女として知られる山内一豊正室・千代夫人がいたりします。見性院という名前をもつ二人の女たちはいずれも賢かったのかもしれませんね。

穴山梅雪 信君、ノ後室見性院 武田氏、歿ス、

引用:『南路志』元和八年五月九日条

保科正之の成長を楽しみにしていたであろう彼女ですが、正之の元服前に亡くなります。

会津藩、武田信玄女見性院(穴山梅雪室)五十回忌につき、菩提所武州足達郡大牧村清泰寺に於いて法事執行し、同寺に田地を寄附し、以来会津に於いて法会を仰せ付けまじく仰せ付ける

引用:『大日本史料』

保科正之、そして会津藩主たちはこの養母の恩を忘れることなく、後継ぎのいなかった彼女のために法要などを執り行っていたようです。

穴山信君の側室:不明

信君は正室・見性院との間に息子・勝千代を儲けていますが、他にも娘がいたようです。

この娘たちの生母はわかっていません。

もちろん正室・見性院の可能性も高いですが、他の女性(側室)との間に生まれた娘である可能性も否定できません。

穴山信君(梅雪)の息子:穴山 勝千代

徳川家康、故穴山梅雪の男勝千代をして、旧地を安堵せしむ、

引用:『大日本史料』

穴山信君(梅雪)と正室・見性院の間には一人息子・勝千代がいました。

勝千代は父・信君亡き後、徳川家康によって穴山氏の家督・所領を安堵されて家督を継ぎます。

さらには祖父・信玄、叔父・勝頼(従兄弟・信勝)と続いてきた武田家の家督をも継いだともいいます。

しかし10代の若さで疱瘡により死去、未婚であったため子供はおらず、ここに穴山氏の家系は断絶することとなります。

一方、武田家の名跡は、信君の養女・下山殿が産んだ家康の五男・信吉(勝千代から見れば義理の甥になりますかね)が継承しますが、この信吉もまた早世します。

穴山信君(梅雪)の娘:延寿院(延寿院殿妙正日厳大姉)

右為久遠寺末寺寄進之畢、永代不可有相違候、弥息女息災 延命之御懇祈不可有御怠慢者也 仍如件

引用:『穴山信君書状』

『穴山系図』によると、穴山信君(梅雪)には娘が一人いたようです。

この娘は天正三年ころに病になったようで、十一月に彼女の病平癒を祈って久遠寺にて所領を寄進したりしたようですが、残念ながら同三年十二月一日に亡くなってしまいました。

信君にとってこの娘の死は相当つらいものだったようで、彼女の法号(延寿院)を冠した「延寿坊」を身延山久遠寺の塔頭として建立し、さらに八日市場・塩沢・土之島などの所領を寄進しています。

穴山信君(梅雪)の娘:南道善妻(南久左衛門母、穴山勝千代妹)

勝千代妹右御朱印持伝、江州志賀郡栗原村地頭南道善と申者所に縁付、男子壱人出生、南久左衛門、

引用:『諸牒餘録』

『諸牒餘録』によると、穴山勝千代の妹にあたる女性が近江の地頭である南家に嫁いで息子を産んだといいます。

彼女の孫(南久左衛門の息子)にあたる亀屋善兵衛は稲葉丹後守(時代的にのちに淀藩主家となった稲葉家の稲葉正往でしょうか)の家臣となったようですが、この時に、家康から勝千代が穴山家の所領を安堵された書状を持っていたといいます。

しかし甲斐の名門・穴山家の娘(なんなら兄・勝千代は武田氏当主)がなぜ武田家旧臣、もしくは徳川家家臣などではなく、近江の土豪に嫁いだのか……?

この結婚が史実だと言うのなら、謎が多い結婚です。

穴山信君(梅雪)の娘?:海野信親側室

穴山信君(梅雪)の娘は、一説には信玄の次男であった海野信親(正室・見性院の同母兄弟)に側室として嫁ぎ、息子・信道(顕了道快)を産んだと言われています。

とはいえど不可解な縁組ではあり……。

信親の正室は海野氏の娘ですから、信親が海野氏の家督を継ぐためには彼女を正室に迎えることは半ば必須だったでしょう。

それはそれとして、わざわざ正室を脅かしかねないほどの(下手したら正室よりも家柄の良い)側室、もしかしたら実の姪かもしれないような相手をわざわざ側室に……?と思ってしまいます。

ちなみにこの信道(事実なら信君【梅雪】の孫)、穴山勝千代より2歳下ということです。

もしも信君の娘が本当に信道の母親だったとしたのなら、この娘は信君が10代くらいの時にできた長女とかだったのではないかと思います。

それか本当は信君の姉妹や親族であった女性を養女として嫁がせた、とかのほうがありえそうな気もしますね……。

信道の母親となったこの女性は夫・信親の没後、信玄の御伽衆であった長延寺の僧侶・実了と再婚しました。

この時に息子・信道を再婚した夫の養子としたため、信道は後に出家し、顕了道快と名乗って長延寺の僧侶となりました。

その後彼は大久保長安事件(大久保長安は元武田家家臣で、信道と懇意にしていた)に連座し、伊豆に流罪となり、そのままそこで死去します。

ただ信道の息子・信正は赦免され江戸にもどり、信正の子・信興の代に高家・武田家として武田の名前を受け継ぐこととなります。

穴山信君(梅雪)の子孫

穴山信君(梅雪)の男系は、一人息子・勝千代の早逝によって断絶しています。

しかし女系では、穴山信君(梅雪)の血筋が現代まで続いている可能性があります。

高家武田家(海野信親側室となった娘から続く系譜)のほうは、途中で養子などを迎えているため、家系としては続いていますが血筋としては続いているとはいいがたいようです。

とはいえど、高家武田家に生まれた女性の嫁ぎ先などで、その血が続いていった可能性は低くありません。

近江の地頭・南家のほうの血筋(南久左衛門―亀屋善兵衛)は、孫の亀屋善兵衛までは続いていることがわかりますが、亀屋善兵衛はあまり身分の高い家臣ではなかったこともあり、その後の詳しい家系等は分かりませんでした。

とはいえど、こちらの家系も現代まで続いている可能性は低くないでしょう。

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