亀菊  承久の乱の遠因となった美女

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

鎌倉時代前期、後鳥羽上皇は幾人かの白拍子を寵愛していました。

白拍子というのは、男装して踊る舞姫で、望まれれば夜を共にする、遊女に近い女性でした。平家物語の祇王や仏御前、源義経の妻静御前なども白拍子です。

滝、石、舞女姫法師といった白拍子出身と思われる女性たちが、後鳥羽上皇の子の母として記録に残されています。

後鳥羽上皇と白拍子たち
『平家物語』における祇王、仏御前、そして源義経の愛妾、静御前など、白拍子は平安末期~鎌倉時代にかけて多く歴史の中にその姿を現しています。 男装して歌舞を奉ずる彼女たちは、多くの貴族や皇族を魅了しました。 魅了された男性の中に、後鳥羽上皇...

そして今回紹介するのは、後鳥羽上皇の白拍子出身の寵姫の一人、亀菊(伊賀局)です。

彼女の存在が、後鳥羽上皇の運命を左右した、と言えるかもしれません。

亀菊(伊賀局)の出自

亀菊の父は刑部丞という下級役人だったといわれています。しかし彼女は零落したのか、身を売って生活するようになりました。(この辺りの経緯は伝わっていません。)

成長した彼女は江口の遊女になっていたようです。

江口は今の大阪のあたりにあった遊里で、住吉大社や熊野大社への参詣の時に貴族たちが立ち寄る場所でもありました。そのため、江口の遊女たちは、貴族の娘にも劣らない教養を身につけたものも少なくなかったようです。

後鳥羽上皇は、上皇になった後、水無瀬の離宮でたびたび宴を催していました。そして、その宴にはたびたび江口の遊女たちが招かれていたようです。

おそらく、亀菊も水無瀬離宮での宴の際に後鳥羽上皇と出会い、そして気に入られたのでしょう。

亀菊(伊賀局)と後鳥羽上皇

いつのころからか、亀菊は「伊賀局」という女房の名前を得て、後鳥羽上皇のそばに仕えるようになりました。

そして後鳥羽上皇は、亀菊に、江口からほど近い場所にある、摂津国長江・倉橋の荘園を与えました。しかしこの荘園を経営するにあたって、邪魔だったのが荘園の地頭でした。

この頃、鎌倉幕府では三代目将軍実朝が暗殺され、源頼朝以来の源氏の直系が途絶えてしまいます。

鎌倉幕府は、後鳥羽上皇の皇子を新たな将軍に据えることを考え、後鳥羽上皇に申し入れをしてきました。

亀菊から長江・倉橋の荘園の地頭のことを聞いていた上皇は、この荘園の地頭を廃することを幕府に要請します。

鎌倉幕府の出した結論は「NO」でした。このことを受け入れてしまえば、幕府を支える「御恩・奉公」の仕組みそのものを揺るがすことになってしまいます。

そして、鎌倉幕府は新たな将軍として、頼朝の妹の子孫である摂家の子供を将軍に迎え入れました。

この問題を通して、後鳥羽上皇と鎌倉幕府の関係は悪化し、2年後に承久の乱がおこることになります。

そして敗北した後鳥羽上皇は隠岐国へ流罪、さらに後鳥羽上皇の子供たちも佐渡、土佐、備前へと追放されました。

鎌倉幕府の肝いりで、次の天皇には後鳥羽上皇の甥が立てられ、後鳥羽上皇の一派は一掃されることになりました。そして鎌倉幕府の影響は朝廷にも強く及ぶようになります。

承久の乱後の亀菊(伊賀局)

亀菊は、後鳥羽上皇の隠岐配流に同行したようです。そして後鳥羽上皇が隠岐で亡くなった後に、上皇の遺骨とともに帰京します。

亀菊はやはり後鳥羽上皇の愛人として有名だったようで、建長年間には「後鳥羽院の霊が降りてきた!」と託宣を下すこともあったようです。

後鳥羽院御霊託事、 伊賀局〈平生御愛物亀菊也、〉申
『岡屋関白記』 建長元年3月27日条より

彼女が亡くなったのはいつごろかはわかりませんが、おそらく最期まで彼女は「後鳥羽上皇の妻」という意思を持って、生きたのではないでしょうか。

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