誠仁親王の妻と子たち

中世史(日本史)

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

正親町天皇の嫡男でありながら、父より早くに亡くなってしまったため皇位につくことのなかった皇子・誠仁親王。元服費用を織田信長に出してもらったり、織田信長に家をもらったり……と織田信長とのかかわりも深いことで知られています。

『麒麟が来る』では誠仁親王を加藤清史郎さんが演じるのだとか。誠仁親王の妻子について調べてみました。

誠仁親王の妻(事実上の正妻?):勧修寺晴子(阿茶局・新上東門院)

誠仁親王の元服は1568年12月(永禄11年)のことですが、晴子はその翌年に子供を産んでいるので、元服と同じ時期に誠仁親王の妻となったのかもしれません。

勧修寺晴子は、もともと元服前から誠仁親王のそばに仕えていた女房で、誠仁親王の1歳年下です。父の勧修寺晴右の兄弟が、誠仁親王の母・万里小路房子の実家である万里小路家の養子となっているため、義母の万里小路房子の縁もあって、誠仁親王の妻になったのかもしれません。

勧修寺晴子の母は粟屋元子といいます。母方の祖父の粟屋元隆は住吉大社宮司でありながら若狭武田氏配下の武将でありましたが、謀反を起こし失脚しました。

彼女は6男7女にも及ぶ多くの子どもを産みました。子どものうち第一王子和仁親王が、後陽成天皇になります。末子の智仁親王は分家をたて、八条宮を名乗ります。残りの子ども達は、四天王寺など門跡寺院の僧侶、尼僧となりました。

息子:後陽成天皇(和仁親王)

誠仁親王の第一王子で、祖父の正親町天皇から皇位を譲られて即位します。

後陽成天皇は近衛前久の娘・前子と結婚、中宮に迎えますが、この前子の母は若狭武田氏の出身といわれています。勧修寺晴子の祖父の粟屋元隆は若狭武田氏と対立していますから、勧修寺晴子とは少し因縁のある間柄だったかもしれませんね。

ちなみに後陽成天皇の側室の一人は、足利義昭の息子の嫁であった古市胤子だったりします。(古市胤子自身は近衛前子の従姉妹と言われています)なんというか……世間は狭いような感じがしますね。

息子:空性法親王

誠仁親王の第二王子で、祖父の正親町天皇の養子になりました。二品法親王で、大覚寺門跡、四天王寺別当を務めますが、後に還俗しました。

息子:良恕法親王

誠仁親王の第三王子で、祖父の正親町天皇の養子になりました。出家して二品法親王となり、曼殊院門跡、天台座主などを務めました。

息子:興意法親王

誠仁親王の第五王子(第四王子は早逝)で、織田信長の猶子になっていたと言われています。祖父の正親町天皇の養子となり、出家、二品法親王となります。園城寺長吏、聖護院門跡、三山並新熊野検校などを務めました。

息子:智仁親王(八条宮)

誠仁親王の第六皇子で、豊臣秀吉の養子になったこと、桂離宮を建立したことで有名です。浅井長政の甥で、秀吉側室の京極竜子の弟でもある京極高知の娘・常子と結婚し、三男一女を儲けました。

娘:永邵女王

勧修寺晴子と誠仁親王の間に最初に生まれた長女。和仁親王(後陽成天皇)の同母姉。幼少期に大聖寺に入り、尼僧となりますが、わずか11歳で亡くなりました。

大聖寺にはこの後も皇女たちが尼僧として入ります。弟の後陽成天皇の皇女・文高女王(母は近衛前子とも、後陽成天皇の側室・西洞院時慶の娘とも)も幼くして大聖寺に入り、尼僧になりました。

誠仁親王の妻:冷泉為益の娘・典侍局(御局、西方、宝寿院祐心尼)

冷泉為益と、興正寺第15世蓮秀の娘の間に生まれました。生まれは1565年(永禄八年)頃と言われています。

誠仁親王の女房で、お気に入りの側室だったようです。安禅寺宮と呼ばれる早逝した王女と、姉の跡を継いで安禅寺に入った心月女王の二人の王女を産みました。

しかし、1582年(天正十年)に、誠仁親王のもとを暇乞いをしたうえで去って、興正寺の第17世顕尊の妻となりました。(僧侶が結婚するの?と思う人もいるかもしれませんが、興正寺は浄土真宗のため、結婚しています)

興正寺の顕尊は養子であったため、先々代の孫娘である冷泉為益娘との結婚を望んだのかもしれませんね。

ただ『兼見卿記』などによると、天正八年ごろ、誠仁親王に、織田信長が冷泉為益の娘のことで申し入れをしたところ、誠仁親王が激怒したということがあったようです。これが顕尊との結婚話に関連することなのでは?と言われているので、もしかしたらなかなか波乱万丈な再婚だったのかもしれませんね。

また、顕尊との結婚後にも、兄の四条隆昌・冷泉為満、姉婿の山科言経が揃って正親町天皇から勅勘を蒙るなどといった事態がありました。冷泉家と天皇家との関係はなかなか円満ではなかったようです。

顕尊との間には、西本願寺准如の妻となる如尊尼と、後継ぎとなる准尊を儲けました。

王女:心月女王

誠仁親王の第三王女です。3歳で安禅寺に入りましたが、10歳で亡くなりました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました