マロツィア ローマ教皇庁を牛耳った美女

世界史

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

ローマ教皇は(女教皇ヨハンナの伝説こそ存在しますが)男性でなければなることができません。そして、ローマ教皇を支える聖職者にも、男性しかなることができません。そんな男の園であるローマ教皇庁を、かつてわが物のように支配した女性がいます。

時は10世紀のローマ、そこに1人の美女がいました。彼女は、遠い祖先はカエサルの出身氏族、ユリウス氏族につながるともいわれるローマの貴族、トゥスクルム伯家の令嬢で、名前はマロツィアと言いました。

ルネサンスの時代に聖職者や貴族の間でもてはやされた高級娼婦・コルテジアーナの、いわば先祖と称しても良い女性かもしれません。
彼女の支配した時代はのちに、「娼婦政治(ポルノクラシー)」と呼ばれることになりました。

若くしてローマ教皇・セルギウス3世の愛人に

マロツィアはローマの貴族、トゥスクルム伯家の娘として生まれました。トゥスクルム伯家は聖職者たちと手を組み、自分の息のかかった教皇を擁立して権力を強めていきました。彼女の父であるトゥスクルム伯テオフィラットも、自らが支援する聖職者を教皇に擁立することに尽力していたようです。また、テオフィラットの妻・テオドラはそういった聖職者と関係を持つことがあったようです。

母テオドラのそのような姿を見ていたからでしょうか。それとも、テオドラに後継者として育てられたからでしょうか。

10代だったマロツィアは未婚であるにもかかわらず、ある聖職者の愛人となります。

その聖職者とは、時のローマ教皇セルギウス3世です。

マロツィアは30歳以上年の離れたセルギウス3世の事実上の妻として、セルギウス3世との間に息子まで生みました。しかし息子が生まれた翌年、セルギウス3世は亡くなってしまいます。

三度の結婚~そして娼婦政治(ポルノクラシー)へ~

セルギウス3世の死後それほどたたないうちに、彼女はスポレート公アルベリーコ1世と結婚します。スポレート公国は当時イタリア中央部のかなりの部分を占めていた国でした。

マロツィアは、アルベリーコ1世との間に、後にアルベリーコ2世と呼ばれることになる息子を生みました。しかし、アルベリーコ1世は早いうちに亡くなってしまいます。父の死後、息子のアルベリーコ2世は父の跡を継いでスポレート公になることはできませんでした。彼がまだ幼いことが理由だったのか、はたまたほかの理由があったのかは分かりません。

夫が亡くなった時、マロツィアはまだ30代半ばでした。実家のあるローマに帰還した彼女は、トスカーナ辺境伯グイードと再婚することを望みました。しかしここで横槍が入ります。

セルギウス3世の次に教皇となっていたのはヨハネス10世でした。ヨハネス10世はトゥスクルム伯家とも非常に関係が深い教皇ですが、彼はマロツィアの再婚にかなり強く反対しました。当時、ヨハネス10世はグイードの異父兄のイタリア王ウーゴとの関係を深めていたため、ウーゴと関係の良くないグイードとマロツィアの権力が強まることを嫌がったのです。

ローマ教皇と言えばローマ=カトリックの最高権力者。普通でしたら、泣く泣くその言葉に従ったことでしょう。

しかしマロツィアは泣き寝入りするどころか、ヨハネス10世を退位させ、さらに牢獄に入れます。ヨハネス10世はそこで獄死しました。

そしてまだ幼い、セルギウス3世との息子を「ヨハネス11世」と名乗らせて教皇に擁立します。ここにマロツィアによる教皇庁支配が完成しました。

しかし、そこまで頑張ってグイードと結婚したにも関わらず、すぐにグイードは亡くなってしまいました。マロツィアは3度目の結婚に踏み切ります。相手はグイードの異父兄、そして2度目の結婚に関して因縁がある、イタリア王ウーゴです。

ウーゴはグイードの異父兄であったため、カトリックの教義を考えると再婚はできませんでした。しかしローマの事実上の支配者であるマロツィアに怖いものはありません。

マロツィアは、グイードとウーゴは実の兄弟ではないと無理やりでっちあげます。そして、932年に息子のヨハネス11世の祝福のもとにウーゴと結婚式を上げました。

運命の暗転

しかし、結婚式の最中に、マロツィアがスポレート公との間に生んだ息子、アルベリーコ2世が襲撃してきました。イタリア王ウーゴはなんとか逃げ出しましたが、ヨハネス11世とマロツィアは捕らえられてしまいました。

結局マロツィアは投獄され、そのまま獄中で死を遂げました。かつてローマを支配した女としては、寂しい最期だったようです。マロツィアの3番目の夫、イタリア王ウーゴは何度かローマを訪れ、マロツィアを救出しようとしたようですが、その願いは叶いませんでした。

マロツィアとウーゴに敵対したアルベリーコ2世ですが、彼はのちにウーゴが前妻との間に設けていた娘のアルダと結婚しています。そして2人の間には、トゥスクルム伯家の後継者となるグレゴーリオ1世と、のちに若くして教皇となるヨハネス12世が生まれました。

マロツィア死後のローマ

マロツィアによる政治は終わりましたが、マロツィアの息子で、マロツィアを投獄したアルベリーコ2世により、20年近くローマは支配されました。彼は母からトゥスクルム伯の地位を受け継ぎ、そして「全ローマのプリンケプスおよび元老院議員」という、かつてローマ皇帝にも与えられていた称号までも手にしていました。彼の政治の手腕はそれなりにあったようで、彼の支配下でローマは秩序を取り戻したといわれています。

アルベリーコ2世の死後、彼の息子のヨハネス12世がわずか18歳で教皇になります。彼は父親や祖母に比べると政治的手腕はなかったようで、東フランク国王・神聖ローマ皇帝オットー1世によって教皇廃位を宣告され、ローマから追放されました。その後ローマに帰還するも、謎の急死をとげます。ヨハネス12世の死後、短期間の在位のローマ教皇が相次ぎ、ローマ教皇の権威は低下します。後にローマ=カトリック教会において「鉄の世紀」と呼ばれる、暗黒期の始まりでした。

マロツィア、そしてアルベリーコ2世の子孫はその後もトゥスクルム伯の地位を受け継ぎました。トゥスクルム伯家からは幾人かの教皇が排出されています。しかし、トゥスクルム伯家が、マロツィア、そしてアルベリーコ2世の時代の栄光を取り戻すことは難しかったようです。

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