後鳥羽上皇の周りには常に多くの女性がいました。
彼がその生涯でもっとも寵愛したであろう女性は、やはり修明門院こと藤原重子ではないかな?と思われますが、後鳥羽上皇のそばに最も長くい続けた女性は、実は別の女性になります。
修明門院とほぼ同時期に、後鳥羽上皇の寵愛を受け始め、そして隠岐の島までついていった女性が一人います。
彼女は坊門局、もしくは西御方の女房名で知られ、本名すらわかっていません。
そんな彼女について調べてみました。
坊門局(西御方)の父親は坊門信清、妹には源実朝室・坊門信子(西八条禅尼)
坊門局の生年は分かっていません。ただ彼女が初めて子を産んだのが建久七年(1196)であることを考えるならば、1170年ごろ~1180年ごろの生まれではないか?と推察されます。
父親の坊門信清は、後鳥羽天皇の母・七条院の弟で、姉の縁もあり内大臣にまで昇進しました。
彼女の兄弟姉妹は多くいますが、やはりその中でも最も有名なのは源実朝の正室であった西八条禅尼ではないでしょうか。
西八条禅尼の生年は建久四年(1193)ですから、おそらく坊門局(西御方)とはかなり年齢の離れていた姉妹であったと思われますが、実朝と後鳥羽上皇はある意味義兄弟だったと考えると少し面白いですね。


坊門局と後鳥羽上皇
坊門局(西御方)が後宮に出仕し始めたのは、おそらく後鳥羽天皇中宮・九条任子が妊娠した頃ではないでしょうか。
そのころの後宮では、中宮任子と源在子(後の承明門院)がもっぱら天皇の寵愛を独占していたころかと思われます。
坊門局の後宮入りは、父信清の意思でもあったでしょうが、おそらく後鳥羽天皇の母・七条院や、彼女を養女にした後鳥羽天皇の乳母・卿二位のあっせんもあったでしょう。
強力なバックアップもあってか、彼女は天皇の寵愛を受けるようになりました。後鳥羽天皇からすれば従姉妹でもあり、気安さもあったことでしょう。
……しかし、彼女が寵愛を受けるようになってから少ししてから、別の女性が寵愛を受けるようになります。
彼女の名前は二条局、坊門局(西御方)と同じく、後鳥羽天皇の乳母・卿二位の養女でありました。
しかし坊門局(西御方)は、何とか二条局よりも先に妊娠し、後鳥羽天皇の第二皇子となる男子を産みました。
卿二位はもちろん、伯母の七条院、父の信清もよろこんだことでしょう。しかし、後鳥羽天皇の関心はさほど向きませんでした。
彼女が第二皇子を産んだ頃、二条局も妊娠が判明します。
そして翌年―二条局は、後鳥羽天皇の第三皇子を産みました。今度は打って変わって、後鳥羽天皇は狂喜乱舞します。
二条局が男子を産んだ翌年、後鳥羽天皇は源在子腹の第一皇子に皇位を譲り、土御門天皇の時代となります。
土御門天皇即位の翌年に、二条局の第三皇子が親王宣下を受けます。同時期に坊門局腹の第二皇子も親王宣下を受けますが、待遇の差は明らかでした。
そして―二条局の産んだ第三皇子は親王宣下の翌年、坊門局(西御方)腹の第二皇子を退けて、異母兄・土御門天皇の皇太弟になったのです。
一方、坊門局(西御方)腹の第二皇子は、その6年後、わずか10歳にして出家することになりました。
出家先は皇族の出家先としては最高格式の寺院・仁和寺でしたが、それでも坊門局(西御方)としてはわだかまりのようなものを感じることもあったかもしれません。
その間にも、坊門局(西御方)は二条局こと修明門院と同じような時期に子を産みました。
二条局腹の第三皇子が東宮となった年に、後鳥羽院の第三皇女となる礼子内親王を、そしてその翌年に(おそらく)第五皇子頼仁親王を産みます。
かつて同僚であったはずの二条局が、彼女を差し置いて叙位、そして「修明門院」と女院号宣下を受けているのを横目に見つつも、彼女は誠実に後鳥羽上皇に仕え続けました。
彼女の子供たちは、七条院の庇護、そして卿二位の庇護もあり、すくすくと育っていきました。


頼仁親王が将軍になるかも?
信濃守行光上洛是六條宮、冷泉宮、兩所之間、爲關東將軍、可令下向御也禪定二位家、令申給之使節也宿老御家人、又捧連署奏状、望此事〈云云〉
引用:『吾妻鏡』
坊門局が生んだ皇子のうち、第五皇子の頼仁親王は出家などの話はなく、親王宣下を受けた後は卿二位の手元で育てられていました。
頼仁秦王が成長し、青年となった建保七年(1219)、妹・西八条禅尼(坊門信子)の夫である実朝が甥・公暁によって斬首され、殺されます。
実朝と妹・西八条禅尼(坊門信子)との間に子供はなく、将軍位は空位となりました。
鎌倉方から、宮将軍―皇子を将軍として迎え入れたい旨の使者が、間を置かずに京へやってきました。
使者が伝えたのは、二条局腹の皇子・雅成親王(順徳天皇の同母弟)、そして、将軍正室の甥にあたる皇子・頼仁親王のどちらかを将軍位に据えたい、ということでした。
この時、頼仁親王の母にあたる坊門局(西御方)が何を思ったのかはよく分かっていません。
わが子がようやく日の目を見るかもしれない幸福に酔ったのか、それとも、荒くれ者の坂東武者の中に放り込まれるわが子を悲しんだのか―
いずれにせよ、頼仁親王が将軍として関東に下ることは許されませんでした。後鳥羽上皇が、わが子を関東に向かわせることを強固に反対したのです。
坊門局(西御方)と承久の乱
冷泉宮、令遷于備前國豐岡庄兒島佐々木太郎信實法師、受武州命、令子息等、奉守護之〈云云〉阿波宰相中將〈信成〉右大辨光俊朝臣等、赴配所〈云云〉
引用:『吾妻鏡』
承久三年(1221)、承久の乱がおこります。坊門局(西御方)の身の回りの様子は一変しました。
彼女の実家、坊門家の男たちも承久の乱には深くかかわっていました。
坊門局(西御方)の弟である坊門忠信らは、妹である西八条禅尼(坊門信子)の助命嘆願もあり、命こそ助かりましたが、一時的に流刑に処されるなどしました。
そして坊門局(西御方)の夫・後鳥羽上皇と、息子・頼仁親王もまた、流刑に処されることとなります。
坊門局(西御方)の第二皇子・道助入道親王は、流罪にこそならなかったものの、仁和寺を新帝・後堀河天皇の兄に譲り渡すこととなったため、都を離れて高野山に隠棲しました。
後鳥羽上皇はうら寂しき離島・隠岐国への流罪が決まりました。
流刑に、身分の高い女性―例えば女院号宣下を受けた女性などはついていくことが出来ません。
修明門院や七条院は、嘆きながらも、後鳥羽上皇と別れるしかありません。しかし、坊門局(西御方)は女院宣下を受けていない、女官身分の女性でした。
坊門局(西御方)は、伊賀局(亀菊)たちと同様に、後鳥羽上皇に付き従って隠岐に赴くことを決めました。
同時期に、頼仁親王は瀬戸内の備前国児島へと流罪になりました。坊門局(西御方)が彼を見送ることが出来たのかどうかは定かではありません。
頼仁親王はそのまま都へ戻ることなく、児島の地で没しました。今もなお、彼の子孫だと語る人々が、児島の地で生活を送っています。

隠岐から戻って
坊門局(西御方)は、隠岐の島でも引き続き後鳥羽上皇のそばに仕え続けました。
後鳥羽上皇は時に隠岐の地でも歌合せなどを開いたといいますから、坊門局(西御方)も歌を詠んだりすることもあったかもしれません。
しかし、都での生活になれていた体に、隠岐での生活はつらいものだったようです。いつのころからか、彼女は病気となります。
それを言い出したのは後鳥羽上皇からだったのか、それとも別の人からだったのか、あるいは彼女の意思だったのか、詳しいことは分かりません。
ただ、隠岐へ渡ってから8年後の寛喜元年(1229)、彼女は一人寂しく帰京することとなります。
ちなみにこの帰京の時期ですが、後鳥羽上皇没後の延応元年(1239)以降とする説もあるので、もしもそうだとしたら文字通り後鳥羽上皇に添い遂げた女性……ということになりますね。
さて、都に帰ったのち、坊門局(二条局)が何をしたのかもわかりません。
都には、娘の礼子内親王(嘉陽門院)がいたため、彼女のもとに身を寄せていたのかもしれません。
坊門局(西御方)は後鳥羽上皇の没後の寛元三年(1245)に、上皇を供養するため仏事を営んだことが『平戸記』などに残されているそうです。
また、文永元年(1264)から文永四年(1267)頃に、後鳥羽上皇の孫・澄覚法親王(修明門院の子・雅成親王の息子)と、後鳥羽院忌日の追善影供和歌会を勧進した「二条局」なる女性についても、坊門局(西御方)ではないか?とも言われています。(修明門院は文永元年に亡くなっています)
このころも生存していたとしたら、坊門局(西御方)は90歳前後だったと思われますが……。
隠岐を離れてもなお、年月がいくら経過しようとも、彼女の心は後鳥羽上皇のそばにあり続けたままだったのかもしれません。