後鳥羽上皇と白拍子たち

中世史(日本史)

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

『平家物語』における祇王、仏御前、そして源義経の愛妾、静御前など、白拍子は平安末期~鎌倉時代にかけて多く歴史の中にその姿を現しています。

男装して歌舞を奉ずる彼女たちは、多くの貴族や皇族を魅了しました。

魅了された男性の中に、後鳥羽上皇がいます。

後鳥羽上皇は、白拍子出身の女性を数多く寵愛したことで知られています。

もっとも有名なのは、承久の乱の遠因になったとも言われる寵姫・「亀菊」でしょうか。(彼女は江口の遊女だったと言われています。)

亀菊  承久の乱の遠因となった美女
鎌倉時代前期、後鳥羽上皇は幾人かの白拍子を寵愛していました。 白拍子というのは、男装して踊る舞姫で、望まれれば夜を共にする、遊女に近い女性でした。平家物語の祇王や仏御前、源義経の妻静御前なども白拍子です。 滝、石、舞女姫法師といった白拍...

しかし、後鳥羽院は他にも数人の白拍子を寵愛していました。

ここでは、後鳥羽院が寵愛した白拍子たちについて紹介しようと思います。

後鳥羽院の側室:某氏石(丹波局、右衛門督局)

丹波局 院女房□□□□白拍子、石、御簾編男娘、今□綺羅、寵愛抜群、

引用:『明月記』

この女性は、もともとは「御簾を編む人」の娘として生まれ、その後白拍子となり、後鳥羽院の側室になったと伝わっています。

亀菊の父親は一応「刑部丞」とのことですから、亀菊はまだ下級公家~役人階級出身の女性ですが、石(丹波局)に至ってはまるっきりの庶民だったようです。

苗字についても当然分かっていません。(苗字に該当するものがあったかも不明です……)

後鳥羽院に出会った後は、女房として上皇に仕えたようで、「丹波局」、「右衛門督局」といった立派な女官名を賜っています。相当愛されていたようですね。

彼女は後鳥羽上皇の娘・凞子内親王を産みました。(この皇女出産の時にはいろいろな情報が乱れ飛んで大変だったようです。)

凞子内親王は、順徳天皇即位時に伊勢斎宮に卜定され、退下後は「深草斎宮」、もしくは「大谷斎宮」と呼ばれました。

ちなみに『明月記』で知られる藤原定家は、姪(異父兄藤原隆信の娘・今姫)が凞子内親王に仕えていたこともあり、たびたび『明月記』中にその姿を登場させていました。

しかし、『明月記』内において、凞子内親王の記録は、内親王が29歳ごろを境に途絶えています。

後鳥羽院の側室:某氏滝(瀧?)

後鳥羽上皇が若いうちに子供を産んでいることなどから考えて、おそらく後鳥羽上皇が、最初に寵愛した白拍子だったのではないかと思われます。

『本朝皇胤紹運録』内において、覚仁法親王の母として「舞女瀧」とあるため、白拍子であったことはほぼほぼ間違いないでしょう。

『一大要記』によると「丹波局」と名乗ったそうですが……おそらく前述の石(丹波局)と混同されているようです。

しかし、苗字が分かっていないことなどを考えると、やはり庶民の出身で石(丹波局)同様に白拍子として後鳥羽上皇にであった可能性が高いように思われます。

滝は後鳥羽上皇との間に、桜井宮こと覚仁法親王を産んでいます。その後は寵愛が薄れたのか、子を産むことはなかったようです。

滝は文永2年(1265)まで生きていました。

生年は不明ですが、建久九年(1198年)に出産を遂げていることなどを踏まえると、おそらく80歳前後で大往生を遂げたのではないでしょうか。

彼女の子である覚仁法親王は母・滝の死の翌年に亡くなっています。

後鳥羽院の側室:本名不詳、舞女・姫法師

後鳥羽院との間には、覚誉、道縁、道伊の3人の息子を産みました(道伊は別の遊女が産んだ子で、覚誉のみ産んだとの説もあります)。

しかし、彼女の子たちは皇子でありながら不遇でした。

姫法師の3人の子供たちはいずれも僧侶となった上に、親王宣下が許されていません。

同じように卑賎の身出身であった滝の子には親王宣下が為されているのに……。どこか不思議ですね。

この3皇子は、いずれも生年自体が分かっていませんので、もしかしたら承久の乱の少し前に生まれて、承久の乱のどさくさに紛れて親王宣下が許されなかったパターンかもしれません。

姫法師の産んだ子のうち、長男にあたる覚誉は、後に禅林寺のトップとなり、大僧都の地位にありました。

道縁は仁和寺に入り一身阿闍梨に、道伊は園城寺の僧侶であったそうです。

タイトルとURLをコピーしました