田沼意次の妻(正室、継室、側室)たち

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

江戸幕府の老中として当時としては画期的な重商主義的な政治を行った田沼意次。

様々な財政政策を行ったと同時に、過激なまでの賄賂政治(当時の風潮では「当たり前」のことでしたが)を揶揄されるなど毀誉褒貶の激しい人物でもありますが、彼の時代には蝦夷地などの開発が行われ、現在までつながる「日本」への道筋が見えた時代でもあったわけです。

2023年10月期のドラマ『大奥』でも、活躍が期待される田沼意次ですが、史実の田沼意次の妻(正室・側室)たちにはどのような人物がいたのでしょうか。

ここでは、田沼意次の妻(正室・側室)について調べてみました。

田沼意次の正室:伊丹直賢の娘

女子 田沼主殿頭意次が室

引用:『寛政重修諸家譜』

室は伊丹兵庫頭直賢が女、卒す。

引用:『寛政重修諸家譜』

田沼意次が最初に迎えた妻は、旗本の伊丹直賢の娘でした。

田沼家はもともと紀州藩士だったのですが、紀州藩主であった徳川吉宗が八代目将軍に就任するにあたって幕臣となった家柄であり、伊丹家も同様に紀州藩士→旗本となった家系でした。

伊丹直賢は田安徳川家(吉宗二男・田安宗武から始まる徳川家の分家【御三卿】)の家老なども務めています。

彼女がいつ頃意次に嫁ぎ、意次と死別したのかは分かりません。

寛延二年(1749)、30歳の意次と継室・黒沢定紀の娘との間に長男・意知が生まれていることなどを考えると、かなり若くして亡くなったことは間違いないでしょう。

彼女は意次との間に子を産むことなく、意次がまだ20代のうちに死別したと思われます。

彼女の姪(弟・直宥の娘)は意次の甥にあたる旗本で一橋家家老・田沼意致の継室となっています。彼女の死後も、田沼家と伊丹家は良好な関係を築いていたようです。

田沼意次の継室:黒沢定紀の娘

継室は黒沢木工之助定紀が女。

引用:『寛政重修諸家譜』

女子 田沼主殿頭意次が室。

引用:『寛政重修諸家譜』

田沼意次の継室は、大番組などを務めた旗本・黒沢定紀の娘でした。

彼女は寛延二年(1749)に、意次の長男・意知を産んでいます。

意知は世子の身でありながら、出世して若年寄に名を連ねましたが、天明四年(1784)に、佐野政言なる旗本によって暗殺されてしまいました。

意知の死は意次に多大な衝撃を与えました。

意次の死後、意知の孫たちが田沼家の家督を継ぎますが、いずれも子孫を残すことなく亡くなってしまいます。

最終的に田沼家の家督は意次と側室・田代氏との間の子である意次四男・意正によって継承されることになります。

ちなみに意知以外の意次の子たちの母親はすべて「某氏」と表記されていることから、彼女には長男・意知以外の子はいなかったと思われます。

彼女の一人息子・意知は横死、彼女の弟・主殿も罪を得て追放されているなど、家族関係ではなかなか苦労の多かった女性だったようです。

田沼意次の側室:田代氏

田沼意次の側室・田代氏はおそらく田沼意次母の養父の家系の出身と思われます。(意次の母は紀州藩士・田代高近の養女でした。)

もしもそうなら紀州藩士の家系の娘ということになりますね。

彼女は、田沼意次の次男で早世したと思われる勇次郎、意次の三女・千賀(成長した娘の中では長女、横須賀藩主西尾忠移室)、意次の四女・宝池院(成長した娘の中では次女、越後与板藩主井伊直朗室)、後に田沼家の家督を継いだ四男・意正(もともとは水野忠友の婿養子・忠徳でしたが、父・意次の失脚によって離縁され実家に戻っていました)、六男・土方雄貞(伊勢菰野藩主)を産んでいます。

ちなみに四男・意正は水野家離縁後、「田代氏」を名乗っていますがこれは実母田代氏の名字を名乗った、ということのようですね。

田沼意次の側室:某氏(意次の次女・意次の三男勝助【膳助とも】・意次の五女・意次の六女・意次の五男松三郎の母)

田沼意次には夭折した子供たちを含めると、総勢で七男六女(養女の新見正則娘を含めると七女)の子供がいました。

彼らの多くは『寛政重修諸家譜』では「某氏」となっていますが、その中でも「同母」と表現されている子供が幾人かいます。

例えば上述の田代氏所生の子の場合、「母は勇次郎某に同じ」と表記されています。

そして意次の子の中で「母は二女に同じ」と表記されている子が何人かいます。それが意次の三男勝助(膳助とも)・意次の五女・意次の六女・意次の五男松三郎で、必然的に次女の母親は、この子供たちの母親ということになりますね。

「某氏」と称されているように、彼女の名前などは一切分かりません。

彼女は意次との間に五人の子を産みますが、男子には幼名しか残されていないことや娘たちが嫁いでいる形跡がないことを踏まえると、この五人の子供たちは早世したものと思われます。

五人の母親であった「某氏」がどうなったのかは分かりません。

田沼意次の側室:九鬼隆棋の母

田沼意次の末子・七男で後に綾部藩主となった九鬼隆棋の母親もまた、寛政重修諸家譜では「某氏」と表記されています。

他の兄弟たちのように、この兄弟姉妹と同母、という表記がないため、意次のある側室が産んだ唯一の子だったと思われます。

田沼意次の側室:意次長女の母

田沼意次の夭折した長女の母親もまた、『寛政重修諸家譜』では「某氏」と表記されています。

意次の他の子供たちの中で、長女と同母と表記されている子はおらず、この側室の子は長女のみだったと思われます。

田沼意次の側室:千賀道有の養女

田沼意次に寵愛を受けた側室として、奥医師であった千賀道有の養女がいたといいます。

この千賀道有の養女、もともとが矢場に勤める女……簡単にいうと遊技場でこっそり客を取った私娼でした。

流石に身分が低すぎるため、田沼意次の知己であった道有の養女になったみたいですね。

田沼との関係もあって、養父の千賀道有はいわゆる田沼時代にはかなり栄えたようで、将軍の侍医にまで昇進、さらに田沼との関係を強めたい人々の賄賂でウハウハな生活を送ったようです。

さらに千賀道有は将軍世子・家基の母であったお知保の方とも縁戚であったとか。

その縁で意次の大奥攻略にも尽力したそうです。

まあ後に田沼時代で彼が受けた恩恵を考えれば、そこまでする理由があったと言えるのかもしれません……。

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