亀姫 強くあらねばならなかった家康の長女

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

大河ドラマ『どうする家康』では「母に似て愛らしく天真らんまん」「素直でたおやか」な人物として描かれている家康の長女・亀姫。

ただ伝承に残る彼女はなかなか苛烈な女性であったようです。

とはいえど、実父によって母、そして実兄を死に追いやられたという環境などもありますから、ある意味強くあらねば生きていけない、といったところもあったのかもしれません。

晩年にはあの曲者にして知恵者・本多正信の嫡子である正純を陰謀にはめたとか後ろ暗い噂も付きまとう亀姫。

また彼女の生涯には、周囲の人の悲劇的な死の多さもあって、どこか後ろ暗さや血なまぐささが漂っているような印象もあったりします。

さて、家康の長女亀姫はどのような女性、そしてどのような生涯を送ったのでしょうか。

亀姫の誕生

亀姫は家康の二番目の子供、長兄信康に次ぐ長女として、永禄三年(1560)に駿府で生まれます。

当時の父・家康はまだ松平元康と名乗っており、今川氏配下の武将でした。

母の瀬名(築山殿)は、今川氏一門の関口家の出身です。

このまま今川氏の天下が続けば、彼女もまた母のように、今川氏の配下の武将たちとの結婚をしていたのかもしれません。

しかし、戦国の世は無常でした。彼女が生まれた永禄三年、今川家当主・今川義元は桶狭間にて非業の戦死を遂げることとなります。

後継者となった若き嫡子・氏真は人心を求心することがかなわず、今川家の弱体化がこのころより始まることとなります。

そして亀姫の父・元康もまた、今川家より離反し、今川義元をうち破った織田信長と同盟を結ぶのです。

駿府に取り残された亀姫は、まだ幼くてあまりことをよく分かっていなかったかもしれませんが、母、そして祖父母の暗い顔を見ることはあったかもしれません。

亀姫の祖父母、つまり瀬名の両親にあたる関口親永夫妻は、そんな中、氏真によって自害に追い込まれます。

父によって母方の祖父母が死に追いやられる、厳しい戦国の情勢にさらされながら、亀姫は育ちます。

祖父母の死の少し後、永禄五年(1562)、亀姫は母・兄とともに、ようやく父の手元に引き取られました。

しかし一説には、母・築山殿は岡崎城に入らず城下で暮らすことを余儀なくされていたとも言います。

もしも母親が城下で暮らしていたのなら、亀姫もまた岡崎の城にはなかなか入ることはなかったのかもしれませんね。

亀姫にとって父・元康(家康)の存在は、あくまでも遠い人だったのかもしれません。

亀姫の結婚

三河長篠城奥平信昌、同国新城城を修築して之に徙るに依り、徳川家康、其女を之に嫁せしむ、

引用:『大日本史料』

亀姫は、家康の長女として、政略結婚に身を投じることとなります。

亀姫の結婚相手は奥平氏の後継者・信昌でした。

奥平氏は今川氏→徳川氏と所属する勢力をたびたび変えており、元亀年間には武田氏に属していました。

しかし家康の調略によって、武田氏から離反、娘・亀姫と信昌の結婚で、徳川方とがっちりと組むこととなります。

信昌と、亀姫の縁談にも、どこか後ろ暗い話がただよいます。

一説には、亀姫との縁談が持ち上がる前に、信昌はすでに有力分家の奥平貞友の娘・おふうと結婚しており、武田氏への恭順の証としてこの新妻を甲府に人質に出していたといいます。

武田勝頼の属城三河作手の守兵、徳川家康の将奥平貞能・信昌父子を同国宮崎・滝山に攻む、貞能等、邀へ撃ちて、之を破る、勝頼、貞能の質子を同国鳳来寺に磔す、

引用:『大日本史料』

しかし、信昌、そして奥平家は織田家・徳川家と組むことを選び、おふう、そしておふうとともに人質に出していた自分の弟・仙丸を見捨てることを選びました。

信昌は甲府にいたおふうに一方的に離縁をたたきつけ、奥平家は武田氏から離反します。

あわれなおふう、そして信昌の弟・仙丸は武田氏の手にかかり、無残な処刑にてその生涯を終えました。

長篠の戦いの後、天正四年(1576)に、亀姫は信昌のもとに嫁ぎます。

信昌はこのころ長篠の地から新城に拠点を移しており、亀姫も新城に嫁ぎました。

亀姫と信昌の夫婦関係がどのようなものだったのかは判然とはしません。

とはいえど、信昌からすると織田家と同名を結んでぶいぶい言わせていた徳川家の姫君にはまったく頭が上がらなかったようです。

信昌は側室を迎えることはありませんでした。

もちろん亀姫が幾人もの子を産んだため、新たな子を儲けるための側室を必要としなかった、ということもあったでしょう。

が、一説には亀姫が信昌が側室を持つことを許さなかったともいいます。

亀姫は信昌との間に、5人の子供(4人の息子と1人の娘)を儲けています。

亀姫が新城で結婚生活を送り始めてから3年後、兄・信康と母・築山殿が非業の死を遂げることとなります。

信康の死は織田信長に強いられたとも言いますが、一説には父・家康と信康との間の不和(家臣団も交えての)も原因だったといいます。

新たに父の後継者となったのは、父と側室・お愛の方(西郷局)との間に生まれた異母弟・秀忠でした。

亀姫が夫に側室を許さなかったのは、もしかしたらこの母と兄の非業の死、そして父の側室とそこに生まれた異母弟たちの存在も少しばかり影響したのかもしれませんね。

ちなみに苛烈な印象の亀姫ですが、決して厳しいばかりの女性でもないようにも思われます。

亀姫の夫、信昌は前妻・おふうの妹にあたる、たつ姫を養女に迎え、亀姫の叔父(父・家康の異父弟)にあたる久松定勝(松平定勝)の妻にとしています。

これは家康のはからいともいいますが、側室を許さない亀姫が、前妻ゆかりの女性に見せた情け深さのようにも思われます。

加納御前と呼ばれるように

新城で5人の子たちを育てていた亀姫ですが、なおも父親に振り回されることとなります。

北条征伐後、父・家康は関東に移封されるのですが、それに伴って夫・信昌も上野国宮崎3万石に移封されます。

長年住んできた三河を離れた亀姫の気持ちはいかなるものだったのでしょう。

さらに、父・家康は太閤秀吉の死後、一気に権力者へと昇り詰めることとなります。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いが勃発、とうとう家康は天下人と踏み出します。

一気に天下人の娘(長女)となった亀姫は、果たしてどのような気持ちだったのでしょうか。

慶長六年(1601)には、夫・信昌が美濃加納10万石(今までの3倍!)に封じられます。

とはいえどすでに老境に入りつつあった夫の信昌はこの少し後に隠居して、三男・忠政が新たな加納藩主となります。

亀姫は三男・忠政を連れて加納に移り、そのことから「加納御前」と呼ばれることとなります。

さらに同じ慶長六年には、嫡男・家昌が宇都宮藩10万石の藩主となります。

亀姫とすれば我が世の春だったのかもしれません。

ちなみに加納の地には「亀姫侍女十二相祠堂阯」なるものが残されているのですが、これは慶長十二年(1607)に亀姫が侍女たち12人を一気に処罰(≒処刑)したあと、彼女たちをまつったものなのだとか。

将軍の娘としての彼女の権力や、強烈なまでの気の強さがうかがえるような気もしますね。

しかし、その後からは、悲しいことが続きました。

大坂の陣の少し前、慶長十九年(1614)、まず、加納藩主となった三男・忠政が急な腹痛を訴え、そのまま亡くなってしまいます。

宇都宮藩主となった嫡男・家昌もまた、ほぼ同じころに若くして病死してしまいます。

息子たちの相次ぐ死が寿命を縮めたのでしょうか、夫の信昌もまた、翌年の慶長二十年(1615)に亡くなります。

息子たち、そして夫の死は亀姫に打撃を与えたことでしょう。

しかし、亀姫はうちひしがれるわけにはいきませんでした。

息子たちの残した孫たちはまだ幼く、まだ草創期の幕府からすれば転封、改易の格好の的となりかねません。

夫の死後、落飾して尼僧姿となった亀姫ですが、孫たちを抱え、なおも奔走します。

ちなみに、二代将軍・秀忠も、この異母姉にはなかなか手を焼いて、まったくかなわなかったとか。まあ強そうだもんね……。

宇都宮釣天井事件

さて尼になったあとも精力的に活動していた亀姫ですが、さっそく臍を噛むような出来事が起こります。亡き嫡男家昌の幼い息子・忠昌が宇都宮から下総古河へとうつされてしまったのです。

その代わりに、宇都宮に入ったのが家康の腹心・本田正信の息子である正純でした。

この正純、亀姫からすると因縁の相手でした。

亀姫の一人娘は大久保忠常に嫁いでいたのですが、忠常早世後に舅にあたる忠隣が改易となってしまいます。

忠常と亀姫の娘の間に生まれていた孫たちも巻き添えを食らってあやうく路頭に迷いかけたのです。

この大久保忠隣失脚に、正純は深くかかわっていたとも言われていました。(少なくとも亀姫はそう思っていたようです。)

さらに、宇都宮藩はもともと十万石だったのですが、正純が入ると同時に、一気に十五万石へと格上げされることとなります。

これも、亀姫の気を逆立てたことでしょう。

怒った亀姫は、意趣返しのために家財道具は元より宇都宮城のふすまや畳、あるいは庭木まですべて掘り起こして古河に持っていこうと試みます。

しかし、そのことに気づいた正純らに阻止されてしまいます。

意趣返しもかなわず、亀姫の怒りは頂点に達します。

そして、思いもよらぬことが起こりました……

是より先、幕府年寄下野宇都宮城主本多正純、出羽山形城主最上義俊の城地接収の上使として、山形に在り、幕府、麾下の士伊丹康勝等を山形に遣し、正純の封を褫ひ、出羽由利に配流せしむ

引用:『大日本史料』

元和八年(1622)、突如として、正純は改易され、出羽国由利の地に流罪にされてしまうのです。

もともと正純は父・正信譲りの智謀の幕臣でありましたが、それゆえに父同様に煙たがられていた所があったといいます。

そのため、正純を恨む人は多かった、と思われるのですが……実はこの改易の陰に、亀姫がいたのではないか?とも言われています。

なんでも、亀姫は異母弟・秀忠にこのように吹き込んだと言うのです。

「正純は、宇都宮城の天井に仕掛けをしていて、あなたを殺そうとしているのですよ……」と。

宇都宮は日光東照宮参拝路への中途にあり、将軍が立ち寄ることもある重要な拠点でした。

もちろん、秀忠はそれを本当に心の底から信じたわけではないでしょう。

とはいえど、徐々に煙たくなってきた家臣を失脚させるのに、都合の良い言い分ではあったかもしれません。

結果として、正純は改易され、正純がいなくなったあと、宇都宮城に入ったのは正純によって追い出された形となった孫息子・忠昌でした。

亀姫はきっと強い喜びを感じたことでしょう。

前美濃加納城主奥平信昌の後室徳川氏歿す、

引用:『大日本史料』

晩年までエネルギッシュに政治にかかわり続けた亀姫ですが、寄る年波にはかてなかったのでしょう。

寛永二年(1625)に、加納の地において亡くなります。享年は66歳でした。

ちなみに家康の娘たちの中で、彼女が最も長生きしています。

また亀姫の享年は66歳なのですが、数多い彼女の兄弟姉妹たち(十一男五女、16人兄弟)の中で、彼女よりも長生きしたのは松平忠輝(享年92歳)、徳川頼宣(享年70歳)の二人のみです。

性格の面では母親譲り?の気の強さ、そして健康の面では父親の血を強く受け継いでいたのかもしれませんね。

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