一橋治済(徳川治済)の妻(正室・側室)たち

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

よしながふみ先生の『大奥』の中には様々な人物が出てきますが、その中でもっともサイコパスな面が描写されたのは「一橋治済」(作中では女性として描写)でしょう。

作中ではそのサイコパスっぷりから「怪物」などとも表現されていた彼女ですが、史実の一橋治済も、息子・家斉を将軍位につけた後は豪奢な生活を堪能したようです。

さてそんな一橋治済(徳川治済)ですが、彼の妻にはどのような人物がいたのでしょうか。

この記事では、一橋治済の妻(正室・側室)について調べてみました。

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一橋治済(徳川治済)の正室:在子女王(京極宮公仁親王王女。桂芳院、万種宮、寿賀宮とも。)

室京極(桂宮)上総太守公仁親王女(在子) 明和七年七月十二日逝、法諡桂芳院、

引用:『一橋徳川系図』

一橋治済は明和四年(1767)に、皇族の京極宮公仁親王の娘・在子女王を正室に迎えています。

在子女王は宝暦六年(1756)生まれ、治済よりもおおよそ5歳年下で、この時まだ数え年で12歳という若さでした。

在子女王は京極宮公仁親王のただ一人の娘で兄弟姉妹は一人もいません。

母親については、公仁親王の正室であった閑院宮直仁親王王女・室子女王とも、家女房とも。

もしも室子女王の所生なら、光格天皇の従妹ということになりますね。

室子女王は彼女が生まれた年に亡くなっており、おそらく彼女は父・公仁親王の継室であった紀州藩主徳川宗直の娘・寿子によって養育されたのではないでしょうか。

武家出身の義母から、武家の女性のたしなみなども学んでいたかもしれません。

この当時の大名の正室たちの多くが子を儲けなかったように、在子女王もまた子を儲けることはありませんでした。

治済の生母不明の夭折した娘たちの母親であった可能性などは残りますが……。

『一橋徳川系図』を見る限り、夭折した長女はどうも家斉の妹みたいなので、家斉の生まれる前に亡くなっている在子女王が母親である可能性は低いように思われます。

彼女は明和七年(1770)、結婚から三年足らずでその生涯を終えます。将軍家の菩提寺である上野の寛永寺に葬られました。

数え年で16歳、満年齢なら15歳という若さでした。

彼女の死のわずかひと月ほど前には、父の公仁親王が亡くなっていますから、まるで父の後を追うように亡くなった……ともいえるのかもしれません。

治済は彼女が亡くなった時は20歳でしたが、その後は新たに正室を迎えることもなく、側室たちとの間に子供を作っています。

再婚しなかった理由は亡き正室への敬慕ゆえか、それとも単に側室たちとの間に子がいるから再婚の必要を感じなかったのか、再婚しようにも相手がいなかったのか。

真相は闇に包まれています。

一橋治済(徳川治済)の側室:お富の方(於富、於登美、慈徳院とも)

女子 母は梅田が養女。一橋中納言治済卿につかへ、将軍家の御母堂たり。

引用:『寛政重修諸家譜』

一橋治済の長男である後の将軍家斉を産んだのは、治済の側室・お富でした。

彼女は紀州徳川家家臣→吉宗の将軍就任に伴い幕臣となった岩本家の出身で、父は岩本正利、母は大奥の老女・梅田なる女性の養女だったといいます。

彼女の母親は大奥の権力者である老女の養女であり、また彼女の義理の大叔母(曾祖父の養女)もまた大奥に仕えていたという記録が残っていることから、彼女の一族は多くの女性たちを大奥に送り込んでいたようですね。

お富の方の実家・岩本家は紀州家から幕府に入った家柄ですが、祖父の岩本正房は田沼意次の父・意行の同僚(八代目将軍・吉宗の小姓でした)で、またお富の方の早世した伯父・正時は意次と同じ日に九代目将軍・家重の小姓となるなど、田沼家とのかかわりの深い一族でした。

彼女は明和元年(1764)に大奥に仕えるようになり、その後安永元年(1772)、徳川治済に見初められて治済の側室となり、大奥から一橋家へ移りました。

大奥というと男性禁制というイメージですが、御三卿の当主だった治済は出入りできたため、たまたま大奥を訪れたときに彼女を見かけ、気に入ってしまったみたいですね。

治済の寵愛を受けた彼女は治済の期待に応えて、治済待望の長男・豊千代(のちの家斉)を出産、その後も家斉の寵愛を受け続け、家斉の四男・雄之助や一橋徳川家を継いだ徳川斉敦らを産みました。

また黒田家へ養子に行った黒田斉隆も彼女の所生であるという説があります。

彼女が治済の側室として子を産み育てている間、幕府は大きく揺れ動いていました。

時の将軍・家治の息子が早世し、後継者がいなくなってしまったのです。

お富の方は実家・岩本家を通して当時の権力者・田沼意次に働きかけ、また一橋家に仕えていたことのある大奥の老女・大崎らにも取り入りました。(彼女の意志ではなく、夫・治済の指示を受けての可能性もありますが。)

それらの運動が功を奏したのか、めでたく彼女の長男・家斉は将軍家治の養子となり、次の将軍として江戸城に入ることとなります。

お富の方もこれにあわせて江戸城へ引っ越し、そして家斉の将軍就任に伴って、彼女は家斉の母として大奥中の尊崇を集め、大奥のトップに君臨することとなります。

大奥の女性たちの多くは、お富の方こそが自分の描きうる最高の未来として、憧れの目で眺めたことでしょう。

30年ほど大奥に君臨したお富の方ですが、文化十四年(1817)に、夫・治済に先立って亡くなります。

没年は分かりませんが、仮に1750年代の生まれだと仮定すると60代くらいでしょうか?

一橋治済(徳川治済)の側室:丸山氏

斉隆 初長暠 雅之助 筑前守 侍従従四位下 実は一橋中納言治済卿の二男、母は丸山氏。

引用:『寛政重修諸家譜』

一橋治済の側室には丸山氏なる女性がいました。彼女はお富の方と同時期に寵愛を受けていたようです。

彼女の詳細は分かりませんでしたが、『寛政重修諸家譜』によると、丸山正春の娘、またその子の丸山政容の娘が一橋徳川家に仕えているみたいですから、おそらくこの女性のどちらかが治済側室・丸山氏でしょうか。

ちなみに丸山政容はもともとは江戸城で働いていたみたいですが、寛政四年に一橋家の物頭になっており、また政容の息子・政俊も一橋家の小姓となるなど、一橋家に娘も息子も仕えているような感じだったみたいですね。

丸山氏は、一橋徳川家の世子だったが早世した次男・治国、田安徳川家を継いだ五男・斉匡、そして尾張藩の御連枝であった高須藩主家の養子となった七男・義居を産んでいます。

また黒田家を継いだ黒田斉隆は、お富の方の子供であるとも言われていますが、『寛政重修諸家譜』や『黒田家譜』では丸山氏の所生となっています。

もしも丸山氏の所生なら、彼女は治済の子を最も多く産んだ側室……ということになりますね。

一橋治済(徳川治済)の側室:中村氏

治済の末っ子二人(久之助、本之丞)の母親は、中村氏なる女性だと伝わっています。

『寛政重修諸家譜』を見ると、徳川家治らに仕えた幕臣の中村信之の娘の中に一橋家に仕えた女性がいるようですので、この女性が治済側室・中村氏でしょうか。

ちなみに彼女の姉と思われる女性の一人は大奥に仕え、もう一人は淑姫(将軍家斉長女・尾張藩主の正室となった)に仕えています。キャリアウーマン一家だったんですかね。

彼女の生んだ子のうち、治済八男・久之助は夭折しています。

また九男・本之丞のほうは享和二年(1802)に越前松平家(福井藩主)の松平治好の養子となりましたが、翌享和三年(1803)に養父の後を継ぐことなく亡くなりました。

中村氏の詳しい生涯については分かっておらず、彼女がいつ頃生まれたのか、またいつごろ亡くなったのかも分かりません。

一橋治済(徳川治済)の側室:不明

治済には娘が四人(うち3名は早世、四女・紀姫【蓮性院】のみが成長して熊本藩主・細川斉樹に嫁いだ)いますが、彼女たちの生母については全く記録が残っていません。

上記の正室・側室の誰かである可能性も高いですが、治済の未知の側室が生んだ可能性も否定できません。

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