徳川綱吉の妻(正室、側室)たち

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

悪法と名高い「生類憐みの令」を出したことで「犬公方」と呼ばれた江戸幕府五代目将軍・徳川綱吉。

生類憐みの令のため悪名の高い将軍でもあります。

しかし一方で、外様大名や身分の低い旗本であっても優れた人物を登用したり、兄・家綱とは異なり将軍として権威を示そうとしたりと、将軍として奮闘した形跡は見て取れます。

将軍として積極的に活動した綱吉ですが、彼自身の妻(正室、側室)との関係などはどうだったのでしょうか?

この記事では、徳川綱吉の妻(正室・側室)たちについて調べてみました。

徳川綱吉の正室:鷹司信子(小石君・浄光院)

摂関家の鷹司教平と側室・冷泉為満娘との間に生まれました。大叔母には徳川家光正室・鷹司孝子がいます。

彼女の同母妹・鷹司房子は後に霊元天皇の中宮となっていますから、信子を介して綱吉は天皇と義兄弟だったということになりますね。

京にてすくすくと育った信子は、寛文四年(1664)に、13歳で5つ年上の綱吉に嫁ぎます。

この時に綱吉の叔母・東福門院(徳川秀忠の娘)の女官が付き従ったといいますから、おそらくこの婚姻は東福門院によって差配されたものだったのでしょう。

彼女と綱吉の間には子が生まれなかったことから、この結婚は不幸なものだった……とも語られるようですが、実情は不明です。

綱吉は彼女と一緒に能や祭礼を見物するなど積極的に外出もしていました。

また、信子は、綱吉と側室の間に生まれた娘・鶴姫のための上臈として、もともと妹の女官だった右衛門佐局を差配しています。

べたべたに仲が良かった、ということはないのでしょうが、綱吉に彼女は尊重され、綱吉の子たちの義理の母のような立場でもあったのだと思われます。

綱吉は能が好きでしたから、京仕込みの文化人だっただろう彼女とも仲良く能の話をすることもあったかもしれません。

宝永六年(1709)に、綱吉の死のわずか1カ月後に亡くなりました。

その急な死から、信子はみずからの女官・伊豆局とともに綱吉を殺し、その責をとって自害した……とも語られていますが、あくまでもうわさ話に過ぎないようです。

綱吉の死が、彼女を弱らせて病魔にかからせたのかもしれませんね。

徳川綱吉の側室:お伝の方(小谷の方・五の丸殿・瑞春院)

徳川綱吉には幾人か側室がいましたが、その中で唯一綱吉の子を産んだのがお伝の方でした。

出自は貧しく、黒鍬と呼ばれる下級武士の娘だったといいます。綱吉が舘林藩主だった時代に、桂昌院付きの侍女になり、その後綱吉の寵臣・牧野成貞の推薦で綱吉の御中臈になりました。

牧野成貞がどこまでねらっていたか分かりませんが、さすがに綱吉の好みをよく分かっていたと思われて、お伝は綱吉の寵愛を得るようになります。

その後、延宝五年(1677)に綱吉の長女・鶴姫、そして延宝七年(1679)に綱吉の長男・徳松を産みました。

徳松は綱吉が将軍家綱の後継者になったあとは、綱吉の後を継いで舘林藩主となり、そのまま将軍家の継嗣と扱われていました。

このまま徳松が成長すればお伝も将軍生母として我が世の春を満喫できたでしょうが……残念ながら、徳松は天和三年(1683)に幼くして亡くなってしまいます。

息子が亡くなり、娘・鶴姫が嫁いだ後は、綱吉のそばには京からの側室たちが固めるようになり、彼女はひっそりと暮らしたようです。

年齢(「お褥滑り」となる30歳を迎えた)こともあったのかもしれません。

綱吉の死後は落飾、瑞春院と名乗り、江戸城二の丸にてひっそりと暮らしました。元文3年(1738年)、81歳で亡くなっています。

徳川綱吉の側室:大典侍(北の丸殿・寿光院)

大納言・清閑寺煕房の娘。おそらく大奥総取締・右衛門佐局の差配で呼ばれた女性でしょうか?

元禄元年(1689)ごろに、京より下向し桂昌院付きの侍女「とめ」となります。

その後、綱吉の寵を得て、側室「大典侍」となりました。綱吉の寵愛は篤かったようで、綱吉は彼女のために北の丸に新御殿を建てたほど。

しかし、子供を産むことはありませんでした。綱吉は彼女のために、彼女の姪・竹姫(清閑寺煕定の娘)を養女とすることを許可しています。

この竹姫は後々将軍吉宗の妻となりかけたりした後に、島津家に嫁ぎ、島津家と将軍家のつながりを深めることとなりました。

綱吉の死後は落飾して江戸城を出て、浜御殿に居住します。八代将軍吉宗の時代、寛保元年(1741)に死去。

徳川綱吉の側室:新典侍(清心院、新助の方とも)

大典侍とおそらく同時期くらいに側室となったのでは?と思われるのが、新典侍です。

彼女は公家・豊岡家の姫君でしたが、大典侍同様に、右衛門佐局の差配で綱吉の側室として迎えられました。

大典侍同様に、彼女も綱吉の子を産むことはありませんでした。綱吉の死後は尼僧となり、江戸城を下がって馬場先御用屋敷に住みます。

その後、なんと享保二年(1717)に密通事件を起こしたことで、飯田町新屋敷に蟄居させられることとなります。ちなみにこの時、新典侍は50代だったと思われますから……元気ですね。

20年ほど蟄居させられたまま、元文四年(1739)になくなりました。

徳川綱吉の側室?:右衛門佐局

綱吉の側室は公式には3人(お伝の方、大典侍、新典侍)ですが、もちろん他にも「側室」にはならなかったけれどもいわゆる「お手付き」となった女性は多くいたかと思われます。

綱吉には「側室だったのではないか?」と言われる女性も多くあり、その一人が綱吉の大奥の支配者だった「右衛門佐局」です。

もともとは朝廷に仕えていた右衛門佐局は、鷹司信子の妹・新上西門院(鷹司房子、霊元天皇中宮)の紹介で、江戸に上がり、最新典侍初は綱吉の娘・鶴姫の上臈となり、紀州藩邸の奥向きに仕えました。

その後大奥に呼び戻され、大奥の総取締となります。彼女の差配によって、大典侍・新典侍ら公家の女性が綱吉の側室と上がったといいます。

そんな彼女ですが、なぜか「綱吉の側室だった」という風説があります。

彼女の年齢(江戸に上がったときは30代半ば)を考えると、おそらく右衛門佐局は、綱吉の側室ではなかったと思われるのですが……。

なぜそのような風説が立ったのでしょうね。火のない所に煙は立たぬと言いますし、もしかして……?

右衛門佐局 綱吉の大奥を優雅に羽ばたいた女
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徳川綱吉の側室?:阿久里(大戸あぐり)

綱吉の寵臣・牧野成貞の正室。慶安元年(1648)生まれのため、綱吉より2歳ほど年下ですね。

もともとは牧野家の家臣の娘で、綱吉の母・桂昌院の侍女でした。その後桂昌院の命令によって、成貞の妻となり、三人の娘を産みます。

のちに将軍となった綱吉が彼女を無理やり成貞から奪って側室にしたといいますが……さすがに根拠がない話ですね。

おそらく夫・成貞の異例の昇進(旗本から大名に)などもあって、ねたんだ人がそのような噂を立てたのだと思います。

徳川綱吉の側室?:お安(牧野安)

上記の阿久里が、牧野成貞との間に産んだ次女。父の婿養子・牧野成時の正室となりました。

おそらく彼女も父の異例の昇進のせいで、母ともども綱吉の側室になった……との風聞が残されました。

夫の成時は早世、お安との間に子供も生まれませんでした(夫の死も、妻を奪われたことに対して悲嘆した成時が自害した……なんて言われていますが、実際には病死のようです。)

夫の死から2年ほどたった元禄二年(1689)に、21歳で亡くなっています。

徳川綱吉の側室?:染子(飯塚染子)

柳沢吉保の側室で、吉保の後継者・吉里の母。

吉保は、牧野成貞が妻と娘を差し出したように、染子を綱吉に差し出した……という風聞が残されています。また実は吉里は綱吉の子で、染子は寝物語に吉里に100万石を強請ったなんて話も。

とはいえど、さすがに家臣の側室だった女性が大奥に上がる……なんてことは考えづらく、さすがに信ぴょう性には乏しいと思われます。

染子の子・柳沢吉里はのちに大和郡山藩主となりました。郡山藩主柳沢家は幕末まで郡山藩主として続いています。

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