伊賀越えの立役者・多羅尾光俊

中世史(日本史)

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本能寺の変後、畿内にいては危ないということで徳川家康はいわゆる「神君伊賀越え」を果たし、浜松まで這う這うの体で逃げ帰ることとなります。

その伊賀越えにおいて、家康に助力をしたことで知られるのが、甲賀衆の元締めとも言われている甲賀の武士・多羅尾光俊でした。

まだ家康が松平元康と名乗っていた時代に、伴与七郎らを三河に派遣するなど家康とはもともとかかわりがあったようですが、彼は秀吉ら多くの戦国大名たちと渡り合って、甲賀の重要人物、多羅尾氏中興の祖として名をはせることとなります。

そんな多羅尾光俊ですが、実際どのような人物だったのでしょうか。

この記事では多羅尾光俊について調べています。

凄腕の甲賀者?伴与七郎資定
『どうする家康』においては野間口徹さんが眼鏡なしで演じることでも話題になった鵜殿長照。 この鵜殿長照を討ち取ったと言われるのが甲賀者の「伴与七郎」なる男でした。 これ以後は史料において登場せず、上ノ郷城攻略戦にのみ表舞台に立った甲賀者・伴与...

多羅尾光俊の家系と前半生

多羅尾光俊は甲賀の国人・多羅尾光吉の子として永正十一年(1514)頃に生まれたといいます。家康よりもかなり年上(30歳年上!)ですね。

彼からすれば家康はもはや息子みたいな年齢差だったようです……。

多羅尾氏は鎌倉時代末期から勢力を広げ始め、その後室町時代などには甲賀の信楽荘の有力者として、信楽を通る武将たちの警護などを務めるなどして、中央とのパイプを築いていました。

多羅尾一族は畿内で活躍したようで、光俊とほぼ同時代を生きた同族・多羅尾綱知は一時は畿内を席巻した三好氏の三好義継の家老となっています。

さて、光俊ですが、彼は父たちと同様、近江の守護大名・六角氏側の国人として京極氏などと戦っていたようです。

彼は一貫して甲賀で活動していましたが、服部党などを介してか、不思議なことに三河の武将・松平家とつながりがあったようです。

まだ今川氏の配下から抜けきっていない家康(当時は松平元康)に、伴与七郎を派遣したことなどは結構有名な話ですね。

光俊はかなり権力者を見抜く鼻が利いたようで、六角氏が没落しつつあることに気づくや否や、尾張から上ってきたばかりの織田信長の配下となります。

家康とのかかわりの中で、信長の天下人としての素質を見抜いていたのでしょうか……。

多羅尾光俊と伊賀越え

多羅尾光俊といえば、やっぱり一番話題に上がるのは神君伊賀越えでしょう。

家康は本能寺の変の時に堺にいたのですが、明智氏側の軍勢や落ち武者狩りに合う危険もあるとのことで、自らの所領である三河・遠江まで何とか帰ろうとします。

この時、家康には織田家からの案内役として長谷川秀一がついていたのですが、この秀一と光俊の五男・山口光広が懇意にしていました。

そのことから、光広の仲介で光俊は家康を警護することとなります。

光俊は息子の光雅や甲賀の武士たちを家康の護衛として派遣し、家康は彼らに守られて無事に三河まで帰り着くことが出来たのでした。

徳川家康、近江信楽の多羅尾光俊をして、其所領を安堵せしむ、其子光雄にも亦山城の地を与へんことを約す

引用:『大日本史料』

家康はこの恩を忘れなかったと見えます。

家康は光俊の信楽の所領を安堵し、さらに彼の息子の一人である光雅にも、これとは別に山城国の所領を与える旨の書状を出しています。

また後に光俊が没落した時、彼はひそかに手を差し伸べるのです。

多羅尾光俊の没落

さて、本能寺の変後、なんやかんやあって織田家宗家から権力を奪取したのは織田家の家臣であった豊臣秀吉でした。

とはいえど秀吉もすでに老年に差し掛かりつつある年頃、光俊はすり寄る相手として、秀吉の養子-秀次を選んでしまったのです。

女子 関白秀次につかへ、秀次事あるのとき、京師にをいて殺害せらる。

引用:『寛政重修諸家譜』

光俊は秀次に多羅尾一族の娘・おまんという娘を差し出し、彼女は秀次の側室・於萬の前となります。

ちなみにこの於萬の前は、『寛政重修諸家譜』によると光俊の息子多羅尾光太の娘、つまり孫娘という説もあったりします。

孫娘を関白の妻とし、秀次という後ろ盾を得た光俊は信楽、そして甲賀の実力者として一説には八万石もの所領を持つ、「大名」にまでのし上がったのです。

さて、この後秀次がどうなったか……少しでも歴史に詳しい人ならもう語るまでもありません。

秀吉の勘気を被った秀次は自害、そして秀次の子たち、側室たち計30名あまりは三条河原にて無惨にも処刑されました。

いづくとも しらぬ闇路を 迷ふ身を みちびきたまへ なむ阿みだ仏

引用:於萬の前の辞世の句

光俊の孫娘・於萬の前は、紫の地に秋の花を散らした美麗な小袖を身にまとって、23歳の命を散らしたと伝承に伝わります。

そして秀次の子供・側室たちの処刑に連座して、秀次の家臣や、側室たちの家族も所領没収などの粛清にあいます。

光俊も例外ではありませんでした。

秀吉、多羅尾光俊の所領近江信楽を没収す

引用:『大日本史料』

この時光俊はすでに80代、孫娘を殺され、所領をも奪われ、失意の底に沈んだことでしょう。

彼は信楽に蟄居し、失意の日々を送っていましたが……。

多羅尾光俊の復活~家康の恩返し~

そんな彼に再び手が差し伸べられました。伊賀越えの恩を忘れていなかった家康です。

家康は光俊の次男・光雅を自身のもとに出仕させ、甲賀信楽3500石の所領を与えて、旗本としました。

光雅は娘を失った兄・光太も徳川家に勧誘し、自身の所領から甲賀1500石を分け与えています。(美しい兄弟愛だ……。)

秀次という大きな後ろ盾を失いこそしましたが、光俊の子供たちは今度は徳川家康という新たな主君を得て、江戸幕府の旗本として多羅尾家を復活させるのです。

光太は関ケ原の戦いや大坂の陣でも戦功をあげ、弟から分け与えられた所領を増やすことにも成功し、最終的に多羅尾家の所領は7000石にまで増えることとなります。

以後、多羅尾光俊の子孫は「多羅尾代官」として信楽代官領の代官として名をはせ、また畿内各地の天領の代官なども務めるなど、江戸時代も大いに栄えたのです。

さて、息子たちの頑張りを信楽から応援していたであろう光俊ですが、流石に年齢には勝てず、大坂の陣の前、慶長十四年(1609)に亡くなっています。

享年驚異の95歳!地味に天海僧正なみの長生きですね……。

彼の父親だと言う光吉も、『寛政重修諸家譜』によると、光俊が生まれた永禄十一年に91歳で死去しているとのことなので家系なのでしょうか?

……91歳で子供が生まれるというおかしなことがおこっていますが、そこには突っ込まないでおきましょう。

秀次の時はちょこっと失敗しましたが、おそらく先祖代々畿内の有力者を見続けてきたことから養われてきた「天下人」を見抜く才覚、そして何よりも長生き!を活かして、多羅尾氏を盛り立てた人物だったんだろうな、と思われます。

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