蔦屋重三郎の弟子?蔦屋吉蔵

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

2025年の大河ドラマの主人公は、横浜流星さん演じる「江戸のメディア王」・「江戸の出版王」蔦屋重三郎ですね。

実はこの蔦屋重三郎と同じように「蔦屋」を名乗り、浮世絵などを多く出版した地本問屋がいます。

彼の名前は「蔦屋吉蔵」、蔦屋重三郎が「耕書堂」と名乗ったのに対し、彼は「紅英堂」と名乗りました。

重三郎と同じく蔦屋を名乗る蔦屋吉蔵とは、いったい何者だったのでしょうか。

蔦屋吉蔵は蔦屋重三郎の耕書堂からのれん分けを受けたと思われる

蔦屋、は重三郎のだけでなく、他にも何人かそのように名乗った人がいたようです。

例えば日本橋小網町に嘉永年間(江戸末期)には蔦屋卯八という商人がいたようですね。(この人は「糠仲間」なので地本問屋ではなく糠問屋みたいですが……。)

とはいえど、蔦屋吉蔵は重三郎同様に地本問屋、さらに当時の浮世絵には版元のハンコが入れてあるのですが、彼が用いたハンコは蔦屋重三郎の用いたものとそっくりです。

そのことから、蔦屋吉蔵は蔦屋重三郎の耕書堂で働いた後、のれん分けを受けて地本問屋を開いたと推測されます。

蔦屋吉蔵は重三郎の亡くなった後、享和年間から活動を始めたと言われています(残された出版物などを見ると、もっと後の化政~天保年間くらいのようにも思われますが……)。

その後、明治時代半ばまで地本問屋を江戸・南伝馬町にて開いていました。

もしも享和年間ごろから店を開いているのならば、晩年の蔦屋重三郎と一緒に仕事をしていたのではないでしょうか。

ただ吉蔵の生年は重三郎死後の1820年ごろという説もあるため、もしも1820年生まれなら、重三郎死後の耕書堂で働いていたものと思われます。

蔦屋吉蔵は渓斎英泉、また歌川広重(初代はもちろん、二代目歌川広重、三代目歌川広重)や歌川国芳ら歌川派の浮世絵師らと多く交流を持っていたようで、彼らの作品を多く出版しています。

特に歌川広重晩年の作となった「不二(富二)三十六景」などが、彼が版元として出版した作品としてかなり有名でしょうか?

彼の師匠とでも言うべき?蔦屋重三郎もまた、歌川広重らと交流を持っていましたから、もしかしたら蔦屋重三郎の耕書堂時代からのつながりかもしれませんね。

蔦屋吉蔵と化政文化

蔦屋重三郎の出版物は田沼時代の自由な風潮の中で新しい町人文化、「宝暦・天明文化」を生み出しました。

一方、蔦屋吉蔵ら地本問屋の出版した浮世絵類は、化政文化の爛熟した町人文化を象徴するものとなりました。

蔦屋吉蔵自身はどちらかというと化政文化の後、天保年間くらいに盛んに活動したようですが、彼の出版した浮世絵もまた、化政文化の流れを汲んだ江戸の町人の文化を、よく示しています。

蔦屋吉蔵と明治維新

蔦屋吉蔵の開いた地本問屋・紅英堂は少なくとも明治20年ごろまでは地本問屋として活動していました。

しかし明治維新の流れの中で錦絵の人気は徐々に下がり、また活版印刷などの隆盛により、浮世絵の文化そのものが廃れていきました。

そんな中でも蔦屋吉蔵は三代目歌川広重らの錦絵を出版しており、また明治二十年(1887)には店舗を移転させるなど、精力的に活動をしていた、ようなのですが……。

蔦屋吉蔵の没年には諸説ありますが、一説には明治二十三年(1890)のことだと言われています。お店を3年前に新規で移転させたばかり、まだまだ地本問屋として商売をしたかったのではないでしょうか。

吉蔵の死後、紅英堂は誰が継いだのか、それとも店じまいしたのかは分かりません。

ただ、彼の死からおよそ20年ほどたった明治四十年代、江戸(東京)において、地本問屋はほとんど姿を消し、残っているのは五代目松木平吉(大黒屋、松寿堂)と二代目秋山武右衛門(滑稽堂)くらいなものでした。

明治四十年ごろには蔦屋吉蔵の紅英堂は地本問屋としては活動しなくなったようです。

このころには彼にのれん分けした蔦屋重三郎の耕書堂もお店をたたんでいたようですから、時代の流れには逆らえなくなったということでしょうね。

江戸の地本問屋は明治時代には活版印刷での書籍類の販売や絵ハガキなどの販売、神問屋への転換などで別業種に切り替えていたようです。

もしかしたら蔦屋吉蔵の紅英堂もまた、地本問屋ではなくなりましたが何らかの形で印刷とかかわるような仕事をしていた……かもしれません。

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