源義経の妻と子たち

中世史(日本史)

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源平合戦の英雄でありながら、兄にうとまれて悲劇的な最期を遂げたことで日本人の心をつかんで離さないのが源義経です。
牛若丸の幼名でも有名で、「弁慶と牛若丸」といった伝説的な逸話にも事欠きません。

そんな源義経の妻や子にはどのような人がいたのでしょう?気になったので調べてみました。

源義経正室:河越重頼の娘(郷御前)

河越太郎重頼息女上洛 爲相嫁源廷尉也 是依武衛仰、兼日令約諾〈云云〉重頼家子二人、郎從三十餘輩、從之首途〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

義経は頼朝の媒酌により、河越重頼の娘・郷御前と結婚しています。(郷御前という名前は伝承での名前のため、本名は不明です。)

郷御前は頼朝の乳母・比企尼の孫娘(比企尼次女・河越尼の子)であり、頼朝とすれば、自身と義経のさらなる関係強化を目論んでいたことでしょう。

郷御前との結婚後、義経は平時忠の娘・蕨姫と結婚していますが、やはり頼朝の身内同然と言う身分は強かったと見えて、郷御前は義経正室であり続けました。

義経はのちに頼朝との関係が悪化し、平泉に赴くことになります。郷御前はその前に生まれたばかりの娘を連れて、義経とともに平泉まで向かいました。

このころ、郷御前の父・河越重頼や、郷御前の兄・重房は義経との関係を理由に粛清されています。

とはいっても、郷御前の母・河越尼は生きていましたし、郷御前の兄弟たちもまだ存命です。

郷御前は義経と離れて、河越の地で生きていくこともできたでしょう。しかし、郷御前はその道を選びませんでした。

義経は平泉で藤原秀衡の知遇を得て、その庇護下におかれました。しかし秀衡は病没、秀衡の子・泰衡は頼朝に従う道を選びました。

文治五年(1189)、義経と郷御前、郷御前と義経の娘が暮らす衣川館は泰衡による襲撃を受けました。義経は郷御前と娘を殺し、自害しました。

郷御前はこの時22歳だったと伝わります。

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源義経の側室:蕨姫(平大納言時忠の娘)

前の腹の姫君の、生年二十一なりたまふをぞ、判官には見せられける。これは歳こそ少し大人しけれども、眉目容世に優れ、心ざま優におはしければ、判官も、世にありがたきことに思ひ給ひて、前の上の、河越の太郎重頼が娘もありしかども、それをば別の所に移し奉て、座敷設しつらうてぞ置かれける。

引用:『平家物語』

義経の側室には、平清盛の義弟・平時忠の娘がいたことが知られています。彼女の名前は伝わっていませんが、伝承では「蕨姫」と呼ばれているそうです。

当時の公家の娘の名づけは「○○子」が多く、この時代辺りからはたいてい「父の名前の漢字一時+子」というのが多い(女性の名前【諱】はめったなことでは使われなかったことも大きいのでしょう)ことを考えると、伯母(平清盛継室・平時子)同様に「時子」、もしくは「忠子」あたりが名前にふさわしいような気もしますね。

平時忠は能登国に流罪となりますが、その前に罪を軽くしてもらうために、自身の娘を差し出したそうです。本来ならば天皇の妻(女官)になることすらありえた上流階級の姫君に、義経も参ってしまったよう。

ただ、彼女は義経に付き従って奥州に下ることはありませんでした。蕨姫はそのまま京の都で生活を送り、おそらく京で義経の死を聞いたことでしょう。

蕨姫が義経と別れた後、どのような生涯を送ったのかは分かりません。

平時忠の娘の1人は後鳥羽天皇の女官(典侍)に、別の娘は公家の中山忠親の妻となっています。

蕨姫もおそらく誰かと再婚したか、それか天皇、上皇、女院などに仕える女官にでもなっていたのではないでしょうか。

源義経の側室(妾):静御前

相從豫州之輩、纔四人所謂伊豆右衛門尉、堀彌大郎、武藏房辨慶、并妾女〈字静、〉一人也今夜一宿于天王寺邊、自此所逐電〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

義経の妻、といえばだれもが脳に思い浮かべるのが静御前でしょう。

静御前は、日本の白拍子の先駆けとも言われる磯禅師という女性の娘とも、養女とも伝わります。彼女は京の都で義経と出会い、義経の妻(側室・妾)となりました。

義経の都落ち後、義経に付き従って移動していたようですが、最終的に義経の命で別れることを余儀なくされてしまいます。その後、鎌倉方の手に落ち、鎌倉まで連れてこられることとなりました。その時、静御前は妊娠中でした。

妊娠中であっても、静御前には容赦なく頼朝、鎌倉方の家臣たちの尋問が降りかかります。また若い武者たちが押しかけて宴会を開き、言い寄られるなんてこともありました。

また妊娠中でありながらも、鶴岡八幡宮で舞い踊ることを強いられ、義経への恋心をうたったことから頼朝の反感を買うも、政子の仲介で事なきを得た……なんてこともありました。

静御前の子供は女子であった場合は助命されることとなっていましたが、うまれたのは男児でした。

今日仰安達新三郎、令棄由比浦

引用:『吾妻鏡』

静御前は泣いて抵抗したそうですが、最終的に男児は頼朝家臣の手によって由比ヶ浜の海の中に沈められました。

静御前はその後、母磯禅師とともに鎌倉を退去したようですが、どうなったのかはよく分かりません。

ただ、伝承では義経、そして我が子との別離の悲しみが癒えぬまま若くして亡くなったと伝わります。

源義経の側室(妾)?:浪の戸(佐藤基治娘)

浪の戸は、奥州信夫郡の庄司・佐藤基治の娘で、義経の従者として名高い佐藤兄弟(佐藤継信・忠信)の姉妹です。

彼女の母は分かりませんが、藤原秀衡のいとこにあたる乙和子姫(藤原基衡の弟・清綱の娘)である可能性があります。もしもそうであるならば、藤原秀衡ゆかりの姫君でもあるわけですね。

彼女の名前・存在は『吾妻鏡』といった公的な歴史書には見えません。ただ、佐藤氏の系図などで、義経の側室として浪の戸の名前が載せられています。

義経が頼朝のもとに出仕する前に奥州で娶った妻だったのでは?と言われています。

浪の戸が子供を産んだかどうかは諸説ありますが、のちに源有綱の妻となる娘を産んだ、もしくは男子安居丸を産んだと伝わります。

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源義経の子供たち

源義経には子供がいたことがわかっています。ここでは義経の子について紹介していきます。

義経の子:郷御前との娘

義経は、郷御前との間に1人娘を儲けています。この娘は義経が衣川館で自害する際に、義経自身の手で殺されました。年齢は4歳だったと伝わります。

義経の子:郷御前との男子

前伊豫守義顯、日來隠住所々、度々遁追捕使害訖遂經伊勢美濃等國、赴奥州是依恃陸奥守秀衡入道權勢也 相具妻室男女、皆假姿於山臥并兒童等〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

義経は奥州平泉に落ち延びる際に、妻(河越重頼の娘・郷御前)、女(郷御前と義経の間に生まれた娘)に加えて「男」、つまり息子を連れていたことがわかっています。

しかし、義経が衣川館で藤原泰衡の襲撃を受けた際の死者に、この男子の名前はありません。

史料にないだけで、衣川館で義経と運命を共にしたのか、それ以前に奥州の厳しい気候で体調を崩し儚くなってしまったのか、それともこの記載自体が間違っていて、本当は存在しないのか?

たとえ義経と郷御前の間に男児がいたとしても、静御前(妾)との間に出来た息子すらも遺棄させた頼朝が見逃すことはあり得ないですから、どちらにせよさほど間を置かず殺されていることかとは思います。

義経の子:静御前との間の息子

義経は静御前との間に息子を1人儲けています。鎌倉の頼朝の監視下で生まれたこの息子は、生まれてすぐに頼朝の家臣によって由比ヶ浜の海中に沈められ、殺されました。

義経の子?:源有綱の妻

伊豆守仲綱男號伊豆冠者有綱者、爲廷尉聟多掠領近國庄公〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

平家政権下で、以仁王と組んで平家に反旗を翻した源頼政の孫・源有綱は「義経の婿」であったと『吾妻鏡』にあります。ただ、そのことが述べられた元暦二年(1185)当時、義経は27歳です。

郷御前との結婚前に娘がいたとしても、父の年齢を考えるのならば、どれほど大きくても10歳になっているかならないか、といった年頃でしょう。

そのため、源有綱の妻は、義経の娘ではなく、義経の養女、もしくは義経の妹で有綱は妹婿だったのでは……?とも噂されています。

ちなみに義経の娘である場合、奥州時代の妻・浪の戸との間の娘という説もあるようです。

源有綱は義経との深い関係性から鎌倉方に追われ、最終的に文治二年(1186)に戦死することとなります。

有綱妻がそののちどのような運命をたどったのかは分かっていません。

義経の子?:中村朝定(源千歳丸/経若)

伊達朝宗の養子で、頼朝側室・大進局の義理の兄弟にあたります。下野中村荘に勢力を持つ御家人でした。

中村朝定は伊達朝宗の養子ですが、実の両親のことが良く分かっていません。

またなぜか、彼は「朝定」を名乗る前に、義経の「義」を用いた「義宗」を名乗り、幕府ににらまれていたりもします。

これらのことから、中村朝定は実は義経の子供・源千歳丸なのでは?という伝承が残されています。

朝定の子孫である下野中村氏は長く続き、戦国時代には宇都宮氏の家臣となっていました。宇都宮氏改易後は帰農したようです。

義経の子?:安居丸(佐藤基信)

義経が佐藤基治の娘・浪の戸との間に儲けたと言われる男児。母方の佐藤姓を名乗ったと言われています。

安居丸の子孫は南北朝時代、南朝方の武将として伊予国で戦死したと伝わります。

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