鎌倉幕府四代目将軍・藤原頼経(九条頼経・三寅)の妻(正室・継室・側室)と子たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

鎌倉幕府三代目将軍・源実朝が公暁の凶行に倒れた後、将軍についたのは頼朝の妹のひ孫にあたる幼児、九条三寅(後の九条頼経)でした。

四代目将軍となった九条頼経の妻(正室、継室、側室)には誰がいたのでしょうか。

気になったので調べてみました。

九条頼経の正室:竹御所

九条頼経が最初に妻としたのは、源頼朝唯一の孫娘で、当時唯一頼朝と北条政子の血を伝えていた二代将軍頼家の娘・竹御所でした。

竹御所は頼経よりも16歳も年上でしたが、頼経の正統性を強化するためにも、やはり頼朝の血縁とのつながりは重要だったのでしょう。

二人が結婚したのは寛喜二年(1230)のことで、頼経は当時13歳、竹御所は30歳手前でした。

年の離れた二人ですが、以外と仲良く過ごしていたといいます。

頼経もきっと、幼少期から「この人が妻になる人だ!」と思って過ごしていたから、すんなりと受け入れたのでしょうね。

結婚から3年後、二人の間には待望の子ができます。しかし翌年、天福二年(1234)に、竹御所は男児を死産、さらにその難産ゆえに彼女もまた懊悩して亡くなりました。

頼経の悲しみはいかばかりだったでしょう。

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継室?:御台所・二位殿(持明院家行の娘か?)

將軍家、入御秋田城介甘縄家被用御車駿河守遠江馬助、備前守以下、供奉隠岐太郎左衛門尉政義、懸御調度御臺處、乙若君、〈各御輿〉入御前右馬權頭亭若君、并御母儀、〈號二棟御方、皆御輿〉渡御若狹前司家是皆御行始之儀也面々御儲、太結搆御引出物、及風流〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

頼経は正室・竹御所を亡くしましたが、将軍として後継者を儲けなければいけません。彼はしかし、北条氏などの有力御家人層から妻を取ることをせずに、公家の娘を妻に迎えました。

もともと摂家(公家の中でも最上級の家格)の出身ですから、東国武士の娘とではなく、公家の娘のほうがなじみがあったのかもしれません。

あるいは御家人同士の牽制などもあって、公家の娘を妻にすることに決めたのかもしれませんね。

頼経の継室となったのは、公家の持明院家行の娘でした。

彼女は、源実朝御台所・坊門信子のように、天皇の外戚一族の出でした。

彼女の大叔母には後堀河天皇(後鳥羽天皇の甥で承久の乱後に即位)生母・持明院陳子がおり、また姉妹の別当典侍は、後堀河天皇の後宮として二人の皇女を産んでいます。

将軍家若君誕生 御母御台所中納言家行女

引用:『北条九代記』

継室である御台所・持明院家行の娘は頼経の次男にあたる「乙若君」と呼ばれる男児を、仁治三年(1242)に産んだといいます。

頼経の男子は、五代目将軍となった頼嗣以外はすべて出家していました。

乙若君は早世していない限り、おそらく出家して僧侶となったことかと思われます。一説には、道増大僧正のことでは?と言われています。

禅定二位家有御移徙之義。龜谷新造御第入御。被用御輿。

引用:『吾妻鏡』

『吾妻鏡』によると、「禅定二位」、つまり二位で尼になった人が、建長三年(1251)に鎌倉の亀谷に新しい家を立てて移り住んだといいます。

この禅定二位については、後述の大宮殿では?という説もあります。

しかし、「二位」であったこと、また一握りの貴人にのみ許される輿を使用していたことを考えると、大宮殿ではなく、御台所・持明院家行の娘でもおかしくはないような気がします。

もしも彼女が頼経御台所であったのならば、寛元四年(1246)に夫が京へと返された後も、鎌倉に住み続けていたということになります。

側室:大宮殿(二棟御方)

風靜午尅二棟御方〈將軍家御寵、號大宮殿大納言定能卿孫、中納言親能卿女〉、御著帶也御加持、岡崎僧正〈源成〉御秡、大膳權大夫維範朝臣、依爲密儀、於御所、不被行〈云云〉自去四月、被行御祈等〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

頼経の後継者となった頼嗣を産んだのは、権中納言藤原親能の娘です。

父・親能は承元元年(1207)に亡くなっていますから、おそらく頼経(1218生まれ)より10歳以上年上の女性だったのでは……?

竹御所のような年上の女性がやっぱり好きだったんでしょうか。

彼女がなぜ、いつどのように妻になったのかは分かりません。彼女の姉妹は源実朝室・坊門信子の兄弟に嫁いでいますから、もしかしたらその縁で鎌倉とのつながりがあったのかもしれません。

また、彼女は持明院家行の娘の親戚(家行の妻が、大宮殿の叔母)でもあるため、その縁で頼経のもとにやってきたのかもしれません。

また、彼女のことは「大宮局」という女房名で称している史料もあるため、もともと頼経の侍女であった人が寵愛を得て……というパターンもありえそうですね。

いずれにせよ、彼女は将軍頼経の後継者となる男児・頼嗣を産みました。

そのころには、御所内の二棟廊に住まっていたことから、「二棟御方」とも呼ばれるようになったようです。

頼嗣の生母不明の二人の息子、道増と源恵もまた、彼女の所生という説もあります。

彼女は夫・頼経の追放後も息子・頼嗣に付き従って鎌倉で生活を送っていました。このころには将軍生母として「二品」(二位の女性)と呼ばれていたようです。

しかし、息子が将軍位を剥奪されて京へ追放された際に彼女もまた鎌倉を追放されます。その後は息子ともども京で生活を送ったと思われます。

九条頼経の子供たち

九条頼経の子としては、やはり将軍位を継いだ頼嗣が有名ですが、他にも出家した息子たちがいました。ここでは頼経の子供たちについてみていきましょう。

九条頼経の嫡男:九条頼嗣

九条頼経の長男で、母親は頼経側室の大宮殿。

わずか6歳で将軍につきますが、建長三年(1251)に、14歳で将軍職をはく奪、京へと強制送還されることになります。

将軍在位中に、北条泰時の孫娘・檜皮姫を正室に迎えていましたが、彼女は結婚からわずか2年後に亡くなっています。

追放された5年後、京の九条邸にて赤斑瘡に罹患し、18歳で死去。父・頼嗣の死からわずか1月ほどであったため、暗殺説も唱えられています。

※「頼嗣の子孫はいないのか?」というお問い合わせがありましたので追記。

『尊卑分脈』などの後世に伝わる家系図では、頼嗣から続く子孫について記載はありません。

亡くなった年齢(10代後半)を考えるならば、記録に残っていない庶子(隠し子)がいた可能性はありますが、もしもいたとしても出家させられたのではないかと思われます。(頼嗣の兄弟たちも頼嗣以外は出家させられていますからね。)

九条頼経の次男:乙若君

九条頼経の次男として、継室である持明院家行の娘との間に生まれた男子でした。

しかしすでに嫡子の座には異母兄・頼嗣がいたためか、後継者となることはなかったようです。

彼がどうなったのかは分かりません。早世したのか、あるいは出家を果たしたのか、どちらかでしょう。

九条頼経の子供:若君御前

今日。三位中將家出幕府。入御于入道越後守時盛佐介亭。若君御前入御于御母儀龜谷亭。

引用:『吾妻鏡』

吾妻鏡において「若君御前」という名前で出てくる、頼経の息子。あるいは上記乙若君と同一人物かもしれません。

兄頼嗣とともに鎌倉にて生活を果たしていましたが、兄の廃位後は頼経室の「禅定二位」が住む亀谷の屋敷に引き取られたようです。その後の様子はよく分かりません。

九条頼経の息子:道増

一説には、上記乙若君その人とも。

叔父にあたる九条家出身の僧侶・道慶の弟子となり、道慶が園城寺平等院執印を務めていた園城寺にて僧侶としての生活を送りました。

後に、僧侶の官位ではトップにあたる大僧正にまで登りました。

九条頼経の息子:源恵

高野山本覚院の僧侶。兄・道増同様に僧侶として昇進を重ね、法務大僧正、天台座主といった地位につきました。

正応六年(1293)に、異国調伏の祈祷(いわゆる文永・公安の役のさなかでした)を執り行った功績を認められて、牛車の宣旨を受けたといいます。

九条頼経の娘

『系図纂要』によると、九条頼経には、嘉禄元年(1225年)12月28日に亡くなった娘が一人いたといいます。

ただ嘉禄元年時点で、頼経はまだ子供ですから、かなり信ぴょう性は低いとみていいでしょう。

九条頼経の娘?:北条政村の妻

九条頼経の娘の一人は、北条義時と伊賀の方との間の子で、後に執権となった北条政村に嫁いだといいます。

しかし、政村の嫡子は三浦氏の娘の所生であることなどを考えるならば、政村は三浦氏の娘を正室としていたと考えるのが無難なような気がします。

真偽についてはかなり怪しいといって良いでしょう。

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