平知盛の妻と子と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

平家の総領・宗盛の同母弟で、平家軍の支柱であった新中納言・平知盛。

兄である宗盛がどちらかというと情けない描写が多いのに対し、弟である知盛は「碇知盛」など、かっこいい描かれ方をすることが多いですね。

そんな平知盛の妻と子供、そして子孫はいるのでしょうか。調べてみました。

平宗盛の妻と子と子孫たち
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平知盛の正室:治部卿局(藤原【花山院】明子)

出自は不詳。もともとは知盛の母・時子の女房として「南御方」と名乗っていました。

この当時「御方」と名乗れるのは、原則大臣の娘(建春門院平滋子が「東御方」を名乗るなど例外はありましたが)であることから、治部卿局の父親は、その当時の内大臣・花山院忠雅では?とも言われています。

彼女が確実に生んだと言えるのは、平知章、平知忠、中納言局の2男1女のようです。増盛律師も、もしかしたら彼女の所生かもしれません。

治部卿局は、後鳥羽天皇の兄・守貞親王の乳母となりました。そのこともあってか、平家の都落ち時に、彼女は守貞親王を連れて夫とともに都落ちをしています。

そして平家滅亡に伴って夫だけでなく、長男知章を失い、さらに次男知忠とも生き別れることとなります。

平家滅亡後は、守貞親王とともに都へ戻りました。

当初は義姉妹である四条(冷泉)隆房の邸宅に身を寄せたようですが、後に守貞親王の養母となった上西門院の邸宅に身を寄せます。建久七年(1196)には、次男知忠の首実検をさせられるなど、過酷な生涯を送ります。

しかし、承久の乱後、守貞親王が後高倉院として治天の君となったことから脚光を浴び、娘の中納言局ともども、権勢を誇るようになりました。もっとも承久の乱では娘婿が処刑されていたりもするのですが……。

彼女の周りの人々は多くが非業の死を遂げましたが、彼女自身は寛喜三年(1231)、80歳前後での大往生を遂げることとなりました。

平知盛の側室?:武藤頼兼の娘(武藤頼平の姉妹)

『武藤系図』によると、武蔵国の武士・武藤頼兼の娘が、平知盛の妻となって平知章の母となったといいます。

ただ、平知章の母であるはずの治部卿局は、少なくとも「御方」と称されるなど、上級公家の娘であることは間違いなさそうですから、治部卿局=武藤頼兼の娘であるとはなかなか考えづらいです。

ただもしかしたら、武藤氏の娘が知盛の側室などになっていた可能性はあるかもしれませんね。武藤頼平は、平知盛の目代として武蔵国に赴いていたとも伝わりますし、また頼平の子・武藤資頼も知盛と関係が深かったようです。

武藤氏と知盛の関係性などを踏まえると、もしかしたら、知盛の四男と伝わる平知宗の母は武藤氏だったのかもしれませんね。

平知盛の側室:不明

平知盛の子のうち、僧侶となっていた増盛、また四男と言われる知宗は治部卿局以外の女性から生まれた子である可能性があります。

当時の公家の多くは側室を持っていたことなどを考えると、知盛にも側室がいた可能性は高いですが……。ただ知盛の側室にどのような女性がいたのかは、今のところ確実には分かっていません。

 

平知盛の子と子孫たち

平知盛には四男一女がいたといいます。平知盛の子と子孫について調べてみました。

平知盛の嫡男(長男):平知章

その中の大将と思しき者新中納言に組み奉らんと馳せ並ぶる処に御子武蔵守知章父を討たせじと中に隔たり押し並べむずと組んでどうと落ち取りて押さへて首を馘き立ち上がらんとし給ふ処に敵が童落ち合はせて武蔵守の首を取る

監物太郎落ち重なり武蔵守討ち奉つたりける敵が童をも討つてけり

その後矢種のあるほど射尽くし打物抜いて戦ひけるが弓手の膝口を強かに射させ起きも上らで居ながら討死してけり

引用:『平家物語』

平知盛と治部卿局の間に生まれた長男です。父同様に勇猛であることで知られていましたが、その勇猛さが命取りになったと言えるのかもしれません。

彼は一の谷の戦いの際に、父親を逃がすために源氏方の児玉党と単身で戦い、大将を討ち取りましたが児玉党の郎度に取り囲まれて討ち死にを果たします。父・知盛は息子の死に対し自分を非常に責めて泣いたと伝わります。

知章は、亡くなったとき数え年で16歳でした。結婚していたかも定かではなく、子孫については伝わっていません。

平知盛の次男:増盛律師

將軍家、關東御下向也供奉人、同御入洛之時但畿内西海之間、爲宗之輩、多以扈從〈云云〉又中納言律師忠快、〈門脇中納言教盛卿子〉中納言禪師増盛、〈新中納言知盛卿息〉等前美濃守則清子息、令相伴之給〈云云〉是皆平氏縁坐也

引用:『吾妻鏡』

平知盛の次男で、幼少期に出家を果たしていました。そのため、父や兄知章とは異なり、都落ちすることもなかったようです。のちに律師(五位相当の僧侶の官職)にまでなりました。

平清盛のひ孫(平重盛の孫、平維盛の子)である六代こと平高清は僧侶でありながらも、のちに処刑されていますが、この増盛律師は同じように清盛の直系(清盛の孫)でありながらも処刑されることなく生き延びました。

頼朝からもそれなりに重んじられたようで、後に鎌倉の勝長寿院(頼朝の父・源義朝の菩提寺)の僧侶となっています。

彼は僧侶であったため、公的には妻帯しておらず、子孫についても伝わっていません。ただ当時の僧侶はこっそり妻帯することも珍しくなかったですから、もしかしたら子供もいたかもしれませんね。

平知盛の三男:平知忠

平知盛と治部卿局の間に生まれた三男です。平家の都落ち時に、乳母子の橘為教のもとに預けられ、伊賀国にかくまわれていました。そのことから「伊賀大夫」とも呼ばれました。

しかし、建久7年(1196年)、彼はなぜか伊賀国から上洛します。そのことを知った幕府によって、平家再興を謀ったとして追討されてしまいます。この時知忠は10代後半~20代前半だったと伝わります。

知忠の子孫についても伝わっていません。年齢を考えるならば、兄知章同様に、まだ妻帯する前だったのかもしれません。

平知盛の四男?:平知宗

平知盛が都落ちした後、西海を流浪しているさなかに生まれた四男だと言われています。平家滅亡後に、鎮西奉行・武藤資頼に庇護され、その猶子として大宰府で生活を送りました。

彼の子は宗重尚、宗助国を名乗り、対馬宗家の祖となったと言われています。ただ宗氏の出自については諸説あり、島津氏同様惟宗氏の出身ではないか?とする説も根強いです。(苗字の「宗」からすると惟宗氏説のほうが有力な気はします。)

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平知盛の娘:中納言局

平知盛と治部卿局の間に生まれた一人娘でした。幼少期に、兄や父との別離を経験します。

成長した彼女は、後鳥羽天皇寵姫の修明門院の弟、藤原範茂に嫁ぎます。修明門院自身、平教盛の娘を母にしていましたから、平家の女性を庇護していたのかもしれません。

彼女は夫との間に、息子・藤原範継と四条隆親(平清盛のひ孫)に嫁いだ娘の1男1女を儲けました。しかし、夫の範茂は承久の乱で京方の武将として戦ったため、処刑されてしまいます。

中納言局は、しかし幸いなことに、承久の乱後、後鳥羽上皇の孫・仲恭天皇に代わって即位した後堀河天皇の父・守貞親王(後高倉院)の乳母子でありました。

夫を失った彼女は、後堀河天皇の女官として内裏に出仕し、母治部卿局同様、女官としての道を歩みます。

後高倉院の乳母子ということもあり、その権勢はすごかったようで、当時の公家・藤原定家は『明月記』にて「権勢ノ女」と記しています。

中納言局の一人息子・範継は羽林家の一つ・高倉(藪)家の祖となりました。高倉家は戦国時代の高倉範久までは直系でつながっていますが、以後は養子を迎えて家名を存続させています。

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